「ひどすぎて笑ってしまう」ダークコメディでもある理由

誤解を恐れずに言うのであれば、本作は「ひどすぎて笑ってしまう」ダークコメディの要素も持ち合わせているとも思う。描かれているのは閉鎖的な村社会における、巨大な権力者からの搾取や同調圧力の問題であり、それは極端なようでいて「確かに現実にもあることだからゾッとする」と同時に「悪い冗談にしか思えなくて笑ってしまう」領域にまで達しているからだ。
その恐ろしく黒い笑いは、横浜流星の演技にも反映されているのではないか。何しろ、横浜流星は「すべてをラストの感情に持っていくため」に、藤井道人監督と話し合いながら表情を作っていき、「もう少し、笑みを2割増し、悲しみは引いて」というオーダーも受けたのだから。そこで横浜流星は「心は泣いているのに、笑っていなきゃいけない」「悲しい表情なのに、心は笑っている」といった矛盾した心境に至っていたそうだが、それでも監督を信じてやり切ったのだという。
なぜ横浜流星の表情に“笑い”を増やし、“悲しみ”を引いたのか。それは本作の物語を最後まで追えばきっとわかってもらえるはずだし、そうする必然性が確かにあると思えたのだ。
さらに恐ろしいのは、語られた物語は極端なようでいて、実は「この日本社会のどこにでもある」と思えることだ。黒木華演じる幼馴染の女性が「東京にも何もなかったよ」と言ったことなどから、他の場所でも同様の生きづらさがあることが示されているからだ。劇中の村は、やはり「残酷な世界の縮図」そのものだ。
そのような絶望にも満ちた物語でもあるが、だからこそ反面教師的に同じような生き地獄に陥らないためのヒントや希望も得られるはずだ。なお、劇中の能の演目「邯鄲(かんたん)」は束の間の儚い夢、転じて栄枯盛衰を表す物語であり、そちらも観る人によって異なる、多様な解釈を促している。
一緒に観た人と、話し合ってみるのも一興だろう。
<文/ヒナタカ>
ヒナタカ
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:
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