菅田将暉「ひとりで生きていけると思ったことはない」“弟”豊田裕大にはプロバスケ選手を目指していた過去も
豊田が誘うも、菅田は「すみません」
――撮影期間中、印象に残っている出来事はありますか?
菅田「役所さんとはよく話していたんですけど、豊田くんとはまだ話もそんなにしてなかったとき、僕は朝から晩まで撮影が続いていて、しかも翌日がかなりの山場のシーンだった日があって、撮影終わりに、豊田くんが『ホテルのサウナに行きませんか?』って話しかけてくれたんです。そのときも、『ああ、話したいんだな。真面目なんだな』と思ったんです。けど、すごく疲れてたし、とにかく翌日が山場だったので、申し訳ないけれど『すみません』って断ったんです。ただ、そんなサウナに誘われるとかいう経験がこれまでなかったんで、なんかちょっとおもしろいなと思って覚えてます」
――豊田さんとしては勇気を振り絞って。
豊田「そうです。すみません。疲れてるとか、次が山場だとか、菅田さんのスケジュールがどれだけ大変で、どれだけ大変な状況なのかということを、僕は全然想像できてなかったんです」
菅田「それは分からないよね」
豊田「想像できなくて。役所さんはお父さんで、菅田さんは兄貴だから、自分ができることって何だろうと考えたとき、とにかく一緒にいて近づくことだとしか浮かばなくて。それで『サウナ一緒に行きませんか』って」
菅田「いや、嬉しかったのよ。別のタイミングだったら行けたのよ。そんなこともあったね」
賢治には、いま生きていて欲しかった
――豊田さんは菅田さんの俳優としてのすごさを現場で目の当たりにしたと思いますが、終盤のげっそり痩せた賢治の姿を見たときはいかがでしたか?
豊田「本当に死んじゃうんじゃないかと思いました。一緒にお芝居をしたり、話したりしているときの、菅田さんの目が僕はすごく好きなんです。目の奥が燃えている感じがして。その菅田さんが、痩せてああいう姿になっている。本当にお兄ちゃんが死んじゃうと思わせてもらったことを、すごくよく覚えています」
――さて、宮沢賢治といえば、教科書に載っている有名人というイメージもあります。でも生前は全く日の目を見ませんでした。それなのに、あれだけの数の作品を残せた。誰かに支えられることの強さから何を思いますか。
菅田「僕はひとりで生きていけると思ったことはありません。人は支え合わないと無理。今回の映画のなかでは、賢治はトシ(森七菜)のために書いて。そのトシがいなくなっても、『俺のために書け』と言った父がいたことによって、賢治は書くことで生きていられた。そうした中で心に少しだけ余裕が出てきて、農民をはじめとした人たちのために動いている姿を、今度は父が見て、父は父で生きていられた。この循環する正しさ、農民芸術みたいなものが、宮沢賢治の愛されるところなのかなと思います。ただ当時評価されなかったのは……。100年早かったんでしょうね。いま生きていて欲しかったなと思います」
【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます
『銀河鉄道の父』は5月5日(金)より公開
(C) 2022「銀河鉄道の父」製作委員会


