35年前の曲を再現するのであれば、完全にその温度湿度まで再現しないといけない
その根底にある職業倫理は、名アレンジャーの瀬尾一三との対談で明らかになります。ライブでもレコードの音像を目指す理由について、こう語っています。
<ファンが昔の曲を聴きたいというのは、単なる懐古趣味とは言い切れないんですよ。とくに我々くらいのキャリアになってくると、その曲を聴いていた時代の記憶をよみがえらせて、そこから自分史を再確認させてあげる作業は、けっこう大事だと思うんです。
ニューヨークに行くと、僕が初めて行った23歳の時と、街並みがまったく変わらないんですよ。パリもそうです。日本はスクラップ・アンド・ビルドがすさまじくて、ここに前は何があったかもわからなくなっている。でも、そうじゃない欧米の都市の普遍性はどこにあるのかなと僕は考えるんです。だから、あんまり自分が先んじてしまってはいけないというのと、35年前の曲を再現するのであれば、完全にその温度湿度まで再現しないといけないと思うんですよ。>
(『音楽と契約した男 瀬尾一三』ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス
p.231)

山下達郎『ON THE STREET CORNER 1』ダブリューイーエー・ジャパン
聴く人ひとりひとりの人生を想像して、各々の物語にフィットする手触りを求めて音楽を作っていく。技術的な面からだけでなく、精神や思想においても徹底的に音楽の解像度にこだわると宣言しているのですね。欧米のソングライターのインタビューを読んでも、このような視点で音楽を捉えている人はいません。
山下達郎というミュージシャンは、全身全霊で聴き手に尽くすのです。筆者が学生時代のフランス語の教師が、山下氏のライブを観に行ってそのサービス精神に度肝(どぎも)を抜かれたと話していたのを覚えています。
山下達郎はどんな極限状況にあっても希望を持ち続けることの大切さを説いてきた
では、そこまで駆り立てる原動力は一体何なのか。過剰さと繊細さがないまぜになったしたたかな熱量はどのように蓄えられるのか。山下氏は、アウシュヴィッツから生還したユダヤ人の心理学者、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を引いて、こう話しています。
<フランクルいわく、あんな過酷な環境にいて、それでも“朝日がきれいだな”と思える。そういう人が生き残るんだと。フランクルが置かれた状況の苛烈さとは比べるべくもないけど、僕も昭和の貧乏人の家庭育ち。しかもドロップアウト。10代後半から20代にかけて、未来のことなんて何も考えられないような不安な時期を過ごしてもいる。けど、何とかしたし、何とかなった。強がりと言ってしまえばそれまでだけど、どこかで人間の根源的なパワー、生き抜く力を信じないと終わりだという確信のようなものがあるんです。>
(文春オンライン『山下達郎2万字インタビュー #1「ものすごくアバンギャルドなジャズ、下敷きをガリガリやってるような演奏が…」山下達郎が現在でも愛聴する名盤とは?』 2022年11月13日)

『BRUTUS 2022年 7月1日号 No.964山下達郎の音楽履歴書』マガジンハウス
「SHINING FROM THE INSIDE」(アルバム『SOFTLY』)をレビューした鳥居真道氏(4人組バンド・トリプルファイヤーのギタリスト)が、山下氏の和声感覚には「オプティミズムが響いている」(雑誌『BRUTUS』2022年7月1日号)と評したように、人間の生命力を全肯定する正のパワーこそが山下達郎の核となっている。どんな極限状況にあっても希望を持ち続けることの大切さを、作品と発言の両方で切々と説く姿勢が尊敬を集めたのです。