遊女たちの痛みを“ひとりの人間のもの”として理解するために
――本展への批判として「買う側視点だ」との指摘も多く挙がっています。これについて渡辺さんは「買う側」ではなく「加害側」という視点が必要ではないかと発信していました。その点を最後に詳しく教えてもらえますか。
渡辺:これまでは、「売られた側」である遊女の視点と「買う側」である男性の視点に焦点が当てられることがほとんどでした。ですが、遊郭と遊女を取り巻く周辺情報はもっと複雑でした。遊郭相手に商売をしていた寝具店や雑貨屋さんなどがあって、ある種の加担・依存状態にありましたし、また、明治以降は遊女の稼ぎから納めた税によって街に病院などが建設されました。
つまり、遊女たちの“犠牲と貢献”による恩恵を受けていた人、間接的にも加害の立場にいた人はたくさんいたのです。ただし、ここで誤解されたくないのが、「みんなが加担していたのだから買っていた男だけの責任じゃない」という意味ではないということです。
――当時近隣で暮らしていた人々だって、必ずしも加害に加わっていると認識していたわけではないはずですもんね。きっと、無自覚に医療などの恩恵を受けていた人もいたでしょう。
渡辺:なので私は、“犠牲と貢献”という表現を使ってみました。貢献というのは、遊女として生きた女性たちの主体性を認めてあげたいという気持ちがあるからです。売られた身だとしても、ただ受身的に流されていただけではなくて、なんとか抗おうとして生きた人もいたでしょうから。私がもっとも伝えたいのは、遊女たちの痛みを自分と同じひとりの人間のものとして理解するためには、より広い視点で見ることが必要ではないか、ということなのです。
渡辺さんへの取材後、編集部は東京藝術大学の見解を聞くべく、大学広報宛にメールにて下記の質問を送りましたが、「本展は本学、東京新聞、テレビ朝日の3者が主催となっておりますので、主催者側からの回答となりますこと、ご了承ください」との返答でした。
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・本展示は東京藝術大学としてはどのような公共益を持つと考えていますか?
・プレスリリースを拝見すると、本展構成の中で吉原の歴史や生活を紹介する旨が書かれていますが、その中で遊女が吉原で働かざるを得なかった社会背景や、仕事内容、年季が明けた後に彼女らがどんな人生を送ることになったのか、といった負の側面は説明されるのでしょうか? また、現状挙がっているさまざまな意見を受け、展示内容を変更する検討はしていますか?
・大吉原展の公式サイトには「約250年続いた江戸吉原は、常に文化発信の中心地でもあった」とあり、2月8日に公開された声明<「大吉原展」の開催につきまして>でも「この空間はそもそも芸能の空間でしたが、売買春が行われていたことは事実です」と記載されていますが、そもそもが売買春の場であり、因果関係が逆ではないかとの意見も多く挙がっています。歴史学者の中には、吉原は幕府公認の売買春の場であり、岡場所(私娼地)と差別化するために、戦略的に文化的側面を押し出して格式を強調したと見ている人もいます。その点は東京藝術大学としてどのように事実認識していますか?
・「お大尽ナイト」は実施される予定ですか?
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その後、大吉原展広報事務局より2月8日に発表された声明文と同じ文面が届いたため、上記と同様の質問(「東京藝術大学として」の部分を「主催者として」に変更)への回答を求めましたが、期日までに回答はありませんでした。
<取材・文・撮影/岸澤美希>
岸澤美希
國學院大學卒の民俗学研究者。編集者・ライター・ポッドキャスター。論著に「関東地方の屋敷神―ウジガミとイナリ」(『民俗伝承学の視点と方法』新谷尚紀編、吉川弘文館)などがある。ポッドキャストで「
やさしい民俗学」を配信中