「こびない、いじけない」冨永愛42歳がすっぴんで語った、コンプレックスだらけだった頃
トップモデル、俳優、チャリティ活動家としてカッコいい女性の代名詞となっている冨永愛さん(42)。昨年にはパリコレへの復帰やNHKドラマ『大奥』での主演も果たし、前進を続けています。
そんな冨永さんの新刊『冨永 愛 新・幸福論 生きたいように生きる』(主婦の友社)は早くも3刷。カバー写真がなんと“最初で最後のすっぴん”で、その内容も半生をすっぴんにしたように赤裸々です。「こんなに叩き上げだったの?」と驚いてしまいました。
17歳で単身ニューヨークのファッション界に飛び込んだ話、モデルとしての成功、出産、離婚、日本での活躍――。
「コンプレックスの塊だった」という彼女が、それをバネに挑戦するさまは、縮こまりがちな日本人女性を励ましてくれるでしょう。
同書の中から、冨永さんの原点とも言える、駆け出しモデル時代のエピソードをご紹介します(以下、『冨永 愛 新・幸福論 生きたいように生きる』より抜粋)。
以前、あるカメラマンが昔の私の写真を見てこう言った。「今回の写真には、この目が欲しいんだよね」と。それは20歳前後の頃に撮られた写真だったと思う。敵をにらむような、世の中全部を恨んでいるような、青白い炎を宿す目だった。
カメラマンのリクエストに応えることはできたと思うけれど、私は知っている。もう二度と、あの目はできないって。あの目は、あの時だけのものだから。
初めてJ・F・ケネディ空港に降り立ったのは、17歳の春だった。日本のモデル事務所に所属していたけれど、私は当時のティーン誌にフィットするモデルではなかった。周囲の大人に「だったら海外に行ってみれば?」と言われて、「じゃあ、やってみようかな」と思った。いま思うと、めちゃくちゃ怖いもの知らず。
海外での初めての仕事は、ニューヨークでの雑誌撮影だった。雑誌『ヴォーグニッポン』に掲載された制服にルーズソックスという姿の写真がきっかけで、私は世界の舞台に出ていくことになる。
といっても駆け出しのモデルだ。順風満帆とは言い難かった。
海外で活躍するモデルたちは、基本的にファッション・ウィークをまわることになる。これはニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノというファッションの主要都市で行われるファッションショー(コレクション)のことで、いわゆる「パリコレ」もその一つだ。各都市をグルグルとまわりながらショーが開催されるので「コレクション・サーキット」とも呼ばれる。
コレクションに出演するためには、各ブランドのオーディションであるキャスティングを受けなくてはいけない。キャスティングはショーの1~2週間前に行われるから、それまでに現地に飛ぶことになる。
私が初めてキャスティングに参加したのは17歳のときのニューヨーク・コレクションだ。あのときはもう、とにかく不安だった。
エージェントがやってくれるのは、キャスティングのスケジュール調整だけ。「明日はここと、ここと、ここと、ここに行って」という指示が書かれたメモを渡されるが、誰もついてきてはくれない。ニューヨーク、ひとりぼっち。
当時の私は英語力ゼロで、イエスとノーしか話せない。自動翻訳機なんてドラえもんの世界にしかなかった時代だ。話せないのはもちろん、聞き取れもしない。そんな状態で、たった一人で会場をいくつもまわってオーディションを受けるのだ。
グーグルマップだって、もちろんない。ホテルで、前夜に紙の地図を広げて会場の場所を確認し、効率よくまわる方法を考えてから眠った。
若いときは生意気がいい。いい子になんてならなくていい
右も左もわからない外国の街で、勝負に出た17歳
ひとりぼっちでオーディションを受けてまわった
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