不倫の恋は「恋」としての密度が高く、恋は無条件に楽しい
そして人は「ふたりだけの秘密」が好きだ。不倫は、すでにふたりだけの共犯関係である。世間を欺き、社会性という「正しいもの」に背を向けて背徳感に酔う。禁断の蜜は甘い。何重にもロックをかけたアプリでのメッセージの熱いやりとり、「相手をこれほど好きな自分」にも酔うことができる。
既婚者は、家族への罪悪感がさらに恋を燃え上がらせ、片方が独身の場合は「好きになった人に家庭があって苦しいけれど、この苦しさも恋する証拠」と納得しながら恋愛道をまっすぐに走っていける。
結婚と恋は異なる。結婚は社会的であり、恋はもともと独善的なものなのだ。だからこそ、不倫の恋は「恋」として密度が高い。誰かを裏切ろうと思っているわけではない、好きになったから一直線なだけなのだ。
なぜなら、恋は無条件に楽しいから。アドレナリンもオキシトシンも出まくって、脳内は快楽物質にまみれていく。かつて「恋のワクワク感は何ものにも代えがたい」と言った中年男性がいた。「何を見ても色がきれいなんだよね」とニヤついた男性もいる。恋の力は、生きるエネルギー源となりうるのだ。若干の障がいがあればなおのこと、エネルギーは高まるばかり。
だがその結果、バレたときは周りに委ねるしかなくなる。不倫の恋は社会性がないので、社会からは受けいれてもらえない。既婚者の場合はパートナーの決断ひとつとなるし、独身者も周囲からの誹りは免れない。それが「理想の恋」に突っ走ったあげくの「現実」である。だが、そこで終わりにならないのが人生の興味深いところだ。
さまざまな選択と決断の果て、ふたりの関係が継続することもあれば、しばらくたって再会することもあるだろう。恋愛関係は終わっても人間関係は続くこともありうる。いずれにしても当事者の人生が、正直に行動した結果ゆえの「恋」のために周りから潰されることのない世の中であってほしい。
<文/亀山早苗>