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リオ閉会式の「君が代」アレンジに感動の声。今までの「君が代」は何だったんだ?

なぜ三宅氏のアレンジに“日本”を感じたのか

 そこで、改めて閉会式バージョンを聴いてみると、まず日本語の発音になまりがあることに気付きます。母音の「お」に、ほんの少しだけ「あ」が入りこむように響いているのですね。たとえば、「いわおとなりて」の部分では、「いわお(ぁ)となりて」といった具合ですし、つづく「こけのむすまで」となると、一瞬何語か分からなくなるのです。  つまり、クラシックの声楽家が歌うときのように縁取りをしっかりするのではなく、メロディーと詞の不和はそのままに、ぼんやりとした発音が新鮮だったのかもしれません。だから、立派な独唱や斉唱ではなく、おぼろげなボーカルパフォーマンスの形式がハマったように感じるのです。  そして和音について言うならば、先にも述べたブルガリアンボイスのポリフォニーといった指摘はもちろんですが、やはりこれが“日本の耳”によってつけられたことに価値があるのではないでしょうか。作曲家・小倉朗(1916-90)の名著『日本の耳』に、以下のような分析があります。 <ヨーロッパの音楽は調的な力の把握に知的作用の授けを借りたが、日本の音楽は、調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。>  つまり、日本の音楽は、ある音を矯正して客観的なルールに従わせるのではなく、鳴っているものすべてを放置して、とりあえず受け入れること。そこに音の和を見るのが日本的な態度なのですね。 ⇒【YouTube】はコチラ Jun Miyake & Cosmic Voices – White Rose (Live in Paris, 2014) http://youtu.be/i6aDzHqVSi4

右も左も関係ない、「君が代」が音楽になった

 歌い出しの一つの音から、散らばり、好き勝手やりながらも、最後また同じ音に収斂していく。しかし、同じユニゾンでも従来の「君が代」と異なるのは、全ての声が一斉にそこを目指すのでなく、早くたどりつくのもあれば、遅れて来るのもある。水の渦が消えるように終わる「君が代」を聴いたのは、初めてでした。  にもかかわらず、驚きよりも納得の方が強かったのです。  というわけで、毎度様々な議論を呼ぶ「君が代」ですが、今回ほど思想信条や政治的立場を超えて、聴く者にすんなりと入ってきたことはなかったように感じます。とすると、「君が代」が初めて音楽になった瞬間だったとは言えないでしょうか。  それが、歌いやすく、気分を高揚させるような統一感とは別の次元でなされたところが、日本らしくてよかったなと思うのです。 <TEXT/音楽批評・石黒隆之> ⇒この記者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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