そこで、改めて閉会式バージョンを聴いてみると、まず日本語の発音になまりがあることに気付きます。母音の「お」に、ほんの少しだけ「あ」が入りこむように響いているのですね。たとえば、「いわおとなりて」の部分では、「いわお(ぁ)となりて」といった具合ですし、つづく「こけのむすまで」となると、一瞬何語か分からなくなるのです。
つまり、クラシックの声楽家が歌うときのように縁取りをしっかりするのではなく、メロディーと詞の不和はそのままに、ぼんやりとした発音が新鮮だったのかもしれません。だから、立派な独唱や斉唱ではなく、おぼろげなボーカルパフォーマンスの形式がハマったように感じるのです。
そして和音について言うならば、先にも述べたブルガリアンボイスのポリフォニーといった指摘はもちろんですが、やはりこれが“日本の耳”によってつけられたことに価値があるのではないでしょうか。作曲家・小倉朗(1916-90)の名著『日本の耳』に、以下のような分析があります。
<ヨーロッパの音楽は調的な力の把握に知的作用の授けを借りたが、日本の音楽は、調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。>
つまり、日本の音楽は、ある音を矯正して客観的なルールに従わせるのではなく、鳴っているものすべてを放置して、とりあえず受け入れること。そこに音の和を見るのが日本的な態度なのですね。
⇒【YouTube】はコチラ Jun Miyake & Cosmic Voices – White Rose (Live in Paris, 2014) http://youtu.be/i6aDzHqVSi4