明治20年代半ば以降、子供の遊戯に軍隊の行軍要素をプラスした運動会が少しずつ変化する。日清戦争中の明治27年11月に行われた三樹小学校(兵庫県)の運動会は、こんな段取りで進められた。
教育勅語(※1)奉読
御真影(※2)を拝む
午後 運動会スタート
敵国軍艦の模造品2隻を児童が焼く
警官の消防演習
河原で軍艦を焼く運動会、シュールな光景である。明治28年に青森県の小学校で行われた「碇ヶ関(いかりがせき)尋常小学校祝捷大運動会」では、
中国兵の首に擬した数百の「揚げ鞠」を風に飛ばして笑い物にする出し物は、さすがに悪趣味がすぎるように思えるが、当時はバラエティ番組のような感覚で受け止められたのだろうか。
地域対抗の戦争ごっこだった運動会は、国家間の戦争と結びつけられ、ムラの祭りがもたらす帰属意識を国家へと拡大するイベントとして機能するようになった。
大正以降、兵式体操は
「教練」と名前を変え、第二次世界大戦の激化で運動会がなくなるまで、運動会の花形であり続けた。
運動会のきっかけとなった兵式体操はどのようなものだったのか。『兵式体操教範』(明治40年)を眺めていたら、
「人梯(じんてい)」という組体操の人間ピラミッドのような体操をみつけることができた。これは戦争で高い崖などを乗り越えて進軍するための訓練らしい。

人梯図1/『不道徳お母さん講座 』より
この「人梯」は、明治45年の鳳鳴義塾(現・兵庫県立笹山鳳鳴高等学校)の運動会プログラムや、大正時代に撮影されたとおぼしき「函館師範学校創立記念第三回陸上大運動会」写真にも登場しており、戦前から運動会の出し物になっていた。組体操はなんのことはない、由緒正しき兵式体操の復活だったのだ。
ということは、巨大組体操は国家による戦前回帰ムーブメント? いや、それはさすがに単純すぎる見立てだろう。
多分目的は、現代ならではのものである。
理不尽な苦役を集団に課せば、人々はやり遂げたことに達成感を抱く。「個」を消して大きな集団に身をゆだねるカタルシスが場を支配する。そうなれば逸脱者が現れても、統治者が手を下すまでもなく、
「自分たちの感動を壊すとは何事か」と同調圧力を働かせて攻撃するようになる。
体罰が許されなくなった21世紀の学校が代わりに見つけた
“感動統治”の手法、それが巨大組体操なのである。それらを推進しているのは、特定の集団というよりも。「感動」して「絆」を深めたい保護者であり、先生であり、子供であり、地域住民であるところの私たちなのかもしれない。
【編集部註】
※1 日本の教育の基本方針を示した明治天皇の勅語(1890年発布)。忠君愛国(天皇に忠義を尽くし、国を愛すること)を国民道徳とした
※2 明治中期から第二次世界大戦の敗戦まで、宮内庁から各学校に貸与された天皇・皇后の写真
<参考/堀越英美『不道徳お母さん講座』 編集/森聖児>