遊びたいというのも人間が根源的に持つ欲望です。小さい子がふざけてじゃれたり、意味のないことをして楽しそうにするのと同様、大人も遊びたいと思っています。遊びとは、日々の生活の中にありながら、非日常的だったり、非生産的、無意味的だったりします。

でも遊ぶことで気分が良くなったり、一緒に遊ぶ相手との一体感が得られます。
遊び方が常識から逸脱していればしているほど共犯意識は高まり、わかり合えているような気になれます。生殖から切り離されたセックスは、動物的観点からすると全て遊びであり、娯楽としてセックスを楽しみたいという欲望があるのです。
遊びに関して重要な点が一つあって、楽しく遊ぶにはルールが必要であるということです。ルールを守った上での逸脱でないと、遊びが遊びでなくなり、ただの危険行為になってしまうのです。
人間が動物的本能として、自分の遺伝子を持つ子孫を残すためにセックスするんだと当然のように思う人がものすごくたくさんいます。なので分類の一つにしましたが、僕はこれに関して当然とは思えません。食べる、寝るといった欲望と同じレベルで、自分の子孫を残したいというのがあるものなのか。
もし自分の子孫を残したいと思わなければ、その人は人間の本能からすると間違いなのか。確かに自分の両親がセックスしなければ自分がこの世にいないという理屈が全人類に当てはまりますが、全両親が自分の子孫を望んでセックスしたかというとそうではありません。それは親の気持ち次第でその子どもの価値が変わるということではなく、子どもはただの結果でしかないということです。
他の動物と違い、勝手に生殖行為(セックス)が出来るようになるわけではなく、誰かから教わってしなければ出来ないのですから、生殖行為としてのセックスは本能的ではなく文化的と捉えなければならないと思うのです。なので、(6)は(4)に集約できるのではないかと考えます。
以上が僕なりの大まかな分類です。そして、セックスには相手が存在しますから、自分中心の欲望ではなく、利他的に相手の欲望を満たしてあげたいという欲望もありえます。上記の(1)~(6)の相手中心バージョンが存在するということです。
〈1〉 相手に肉体的快感を与えたい
〈2〉 相手に所有、支配、征服されたい
〈3〉 肉体を介して精神的につながりたい
〈4〉 セックスを通して社会的な評価、成果を与えたい
〈5〉 遊び(非日常的な時間・感覚)を堪能したい
〈6〉 相手の子孫を残したい
ここでポイントとなるのは、〈3〉と〈5〉は相手中心になっても変わらないというところです。欲望というエゴイスティックなものでありながら利他性を兼ね備えるには、セックスで相手と精神的につながろうとするか、一緒に遊ぼうとすればいいのです。これを別の表現にすると、タテの関係でつながるのではなく、ヨコの関係でつながるようにすればいいということです。
自分の欲望を満たそうとするあまり、相手を利用するとなってしまうと使用者、被使用者と立場が別れて上下のタテの関係になります。もちろん行為における主体的立場と客体的立場はあるわけですが、その関係が同じ目線のヨコの関係であればいいということです。そうすると、セックスという行為そのものを楽しめるのです。