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「楽な方」を選んだら、モンゴルで養蜂家になっていた。“早稲田卒・シングルマザー”アジア移住の25年間

「あなたはどうして海外へ?」  世界100の国・地域で生きる100人の日本人に、ライター・おかけいじゅんがインタビュー! 日本を飛び出て外国に移住したきっかけや、気になる現地での生活事情を深掘りする。
モンゴル

養蜂作業中の智子さん

(本記事は『世界へ飛び出た100人の日本人』より一部を抜粋し、再編集したものです)

成績順×消去法で選んだモンゴル

──モンゴルと出会ったきっかけを教えてください。  大学ですね。もともとは東京大学を出て官僚になりたいと思っていたのですが、受験に失敗しまして。夢破れて入学した早稲田大学では授業に集中できず、成績も振るいませんでした。そして、私が入った文学部では2年の進級時に成績順で専攻を決めることになっており、人気のある専攻はすぐ埋まってしまうんです。そこで、枠がまだ残っていた「東洋史」を選ぶことになり、モンゴル史を学ぶことになったんです(笑)。 ──東洋のなかでも、なぜモンゴルだったんでしょう?  モンゴル語はみんなゼロからのスタートで差もなく、新鮮でいちばんとっつきやすそうだったんですよね。楽な方へ楽な方へ……と進んでいたら、そこにモンゴルがあったという感じですね。

閉塞感漂う日本、自由へ向かうモンゴル

──初めて現地に行ったのはいつごろですか?  1997年、大学4年生のときですね。モンゴル史の先生に「せっかく1992年に民主化したばかりだから現地で調査してみては」と言われて。そこで、4年生になるタイミングで休学して留学することしたんです。その視察で訪れたのが最初でした。 ──第一印象はどうでしたか?  なにもかも日本と真逆でしたね。すこし前まで社会主義だったこともあり、どこの店員さんも無愛想で商売っ気がまったくないけど、人はやさしい。日本と比べて街で見かける車の量も極端に少なくて。すべてが新鮮で、留学が楽しみになりました。 ──留学に不安は感じなかったですか?  なかったですね。当時は就職氷河期で、日本は景気も悪く閉塞感がありました。一方のモンゴルは民主化直後で「これから自由を味わっていこう」という開放的な雰囲気だったんです。 ──留学はどうでしたか?  初めは大学の授業でも半分以上なにを言っているのかわからない状況だったので、とにかくモンゴル語を徹底的に学びました。この期間にだいぶ上達することができましたね。もともと休学は2年間のつもりだったんですが、現地で妊娠をしたので「子どもが生まれる前に帰って大学を卒業せねば!」と1年で帰ってきました(笑)。 ──なんと! お子さんの父親はモンゴルの方ですか?  はい。でも、彼とはすぐに別れて、一人で子どもを育てることになりました。でも、日本では子育てをしながら働くのは難しいし、シングルマザーとして生きるのは大変だろうと感じて。一方でモンゴルは社会が子どもをとても大切にする文化があり、仕事や勉強をしながら子育てする人もたくさんいる。そこで、卒業後の1999年にモンゴルに移住しました。 ──産後すぐに子どもを連れて移住。すごい決断ですね。  あまり先のことを心配しても意味がないと思っていました。もともと精神的にタフというのもあるんですが、「なんとかなるだろう」と思っていましたね。でも、私からすれば、日本よりモンゴルの方が生きるのが楽そうだったんです。やっぱり学生のときから変わらず「楽な方」を選んでいるだけなんですよ。 ──モンゴルでの仕事はどうやってはじめたんですか?  アメリカに住む日本人がテレビの撮影コーディネートや通訳をしていると聞いたことがあったので、モンゴルに移住する前、高田馬場のコーディネート会社に「モンゴルに行くので仕事ください!」とお願いしに行ったんです。そしたらすぐに仕事をもらえて。天職だったのか、20年以上続けていますね。
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