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人は自らの人生の選択を最善だと思いこむことしかできない|夜のこと

「小説を書きたい」とつぶやくあの子に近づきたくて僕はいま“夜のこと”を書いている――。  作家のpha(ファ)が自らの恋愛遍歴をベースに小説を書き始めたのは、“あの子”と文章を見せ合うためだった。  手をつないだだけで気持ちいい女性、部屋のいたるところにカッターナイフが置いてある女性、上下に揺れながら彼氏ができたことを報告してくる女性。これまでに出会った女性たちとの思い出を下敷きに小説を書いては送る。 “あの子”には早々に告白して振られてしまったが、それでも関係性を保とうと書き続けた。ここにその掌編小説の一部を公開する。 ※当連載は、同人誌即売会・文学フリマ東京で発表され話題を呼んだ『夜のこと』(全二巻)に掲載された文章を大幅に加筆修正したもので、一冊にまとめた単行本版『夜のこと』は11月15日発売。

【第二回】待ち合わせ

 待ち合わせというものが昔から苦手だ。それはいつもぼんやりしているせいで、すぐ遅刻してしまったり忘れ物をしてしまったりするからなのだけど。  今日も家を出て一分後くらいに、あ、顔を洗うのを忘れた、と気づいて、早足で引き返して、顔をざばっと洗って化粧水をぺしゃぺしゃと塗ってから、また早足で駅まで向かって電車に乗った。急いで歩いたので少し息が切れた。  それでも結局、目的地の駅に着いたのは待ち合わせの十五分前だった。全然余裕だった。そんなに急がなくてもよかったのだけど、いつも不必要に焦ってしまう。  そもそも待ち合わせに十分くらい遅れたって相手は大して気にしないだろう。でも、そういうのがどうもできない。いつも時間を気にしすぎて早く着いてしまう。もっとルーズで適当に生きていきたいのに。  駅の前でしばらく休みながら、青ちゃんが来るのを待つ。駅のすぐそばには小さな川が流れていて、その川を渡る橋の上を人々が早足で行き来している。  呼吸を落ち着かせるために自販機でミネラルウォーターを買って、壁にもたれかかりながら蓋を開けて、水を一口飲んだ。すると、冷たい水を口に含んだ途端、なんだか景色がガラッと色を変えた気がした。世界全体を覆っていた薄皮が一枚剥がされて、見えるもの全てが少しだけあざやかになったような。  こういうことはときどきある。不意に、いつも見慣れている風景が新鮮なものに見えたり、なぜ自分は今ここにいるのだろうという気持ちになるときが。多分何かの錯覚なのだろうけれど。  なぜ自分がここにいるかはわかっている。僕は青ちゃんを待っている。  青ちゃんとつきあい始めてから三か月ほど経つ。彼女は喜怒哀楽の激しい人で、楽しいときは子どものような顔でコロコロと笑う。怒ったときはものすごく怖くなるけれど、きちんと誠実に謝るとすぐに機嫌を直してくれる。料理が得意でお酒が強くて、僕のことをすごく大事にしてくれている。もう少ししたら改札からいつもの笑顔で現れるはずだ。  だけど、僕がここで彼女を待っているのがなんだかとても不思議な気がした。なぜ僕はここで青ちゃんを待っているのだろう。去年つきあっていた緑ちゃんでも、そのあとちょっといい感じになりかけた白ちゃんでもなくて。  もうすぐ目の前の改札から出てくるのは、どうして青ちゃんなのだろうか。ゆったりとしたワンピースを着た緑ちゃんが「いつも遅れてごめんよ」って言いながら現れてきても、いつも忙しそうにしている白ちゃんが早足で近づいて来て「待ちましたか?」って問いかけてきても、どちらでも全然おかしくない気がする。どちらの様子もとてもリアルに想像できる。どうしてこういうことになったんだっけ。  いや、頭ではちゃんとわかっている。緑ちゃんのことは好きだったけど、つきあっているうちに会ってもお互いにやさしくできなくなってしまって別れてしまった。そのあとしばらく一人でいて、たまたま知り合った白ちゃんのことを好きになったけど、向こうは別の人のことが好きだったので諦めた。そして次に出会った青ちゃんと仲良くなってつきあい始めて、今に至る。それは覚えている。  だけど今、青ちゃんと待ち合わせしている自分と同じくらい、緑ちゃんと待ち合わせしている自分や白ちゃんと待ち合わせしている自分をリアルに想像できてしまった。一瞬のあいだ、自分のいる世界線がわからなくなってしまった。  人生の選択肢というものはいろいろあるけれど、人はそのうち一つしか選ぶことができない。そして自分の選んだ選択肢を最善だと思いこむことしかできない。そうやって生きていくしかないのだ。  駅前を行き交う人たちをぼんやりと眺めながら、ここを歩いている人それぞれにも、それぞれの何十年もの人生があることを想像してみる。それって途方もないことだ。みんなどうやって、この得体の知れない人生というものを生きていっているのだろうか。  そんなことを考えていると、ぶるぶる、とポケットの中のスマホが震えて、自分を現実に引き戻す。 「もうすぐ着くよ」  青ちゃんからのメッセージだった。 「改札前で待ってる」  と僕は返信をした。  時刻はちょうど待ち合わせの二分前だ。今僕がつきあっている女の子は、待ち合わせにいつも早めに来る子ではなく、いつも遅れて来る子でもなく、いつもちょうどぴったりくらいに来る子なのだ。 <文/pha(ファ)>
pha(ファ)
1978年、大阪府生まれ。作家。京都大学総合人間学部を24歳で卒業したのち、25歳で就職。できるだけ働きたくなくて“社内ニート"になるものの、30歳を前にツイッターとプログラミングに衝撃を受けて退社し上京。シェアハウス「ギークハウスプロジェクト」を主宰し、"日本一有名なニート"と呼ばれた。著書に『持たない幸福論』『しないことリスト』『どこでもいいからどこかへ行きたい』などがある。 初の小説『夜のこと』が11月15日発売。
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