このような経緯で、日常生活の中で「水松」と名乗る機会は激減しました。その結果生じたのは、業務上の不都合だけではありません。自己紹介するとき、電話で名乗るとき、昔の取引先にこれまでとは違う姓で呼ばれるときに、違和感と喪失感が入り混じったような複雑な感情が水松さんの中に募っていきます。
「
気づくと、これまでとは違う姓で呼ばれることが苦痛になっていました。住民票で旧姓に線が引かれているのを見て、意味もなく涙が出てくることもありました」
その思いは、夫にも相談しました。仕事上の不都合や旧姓を失った喪失感、結婚後の姓で呼ばれることの違和感を夫に伝えようとするのですが、どうしても真意が伝わりません。
激しく夫婦げんかをする日もあったといいます。
世の中には、新しい姓を当たり前に受け入れて生活している人たちが大勢います。そんな中で、彼女はなぜこんなに苦しんでいるのか。これを他人が理解することは非常に難しく、夫も例外ではなかったようです。
「夫は『
そんなに俺の姓がいやなの?』と言うこともありました。夫の姓が嫌いなのではなく、自分が仕事やプライベートでずっと使ってきた姓をこれまで通り使いたいだけ。決して夫のことを拒否しているわけではないんです。
なのに、なかなか思いが通わず、当時は言い争いばかりしていました。一度、夫に『
あなたの姓が変わることになったらどう思う?』と聞いてみたこともありました。そしたら『
それは無理』と。夫は、そこでハッとしていました。彼の中にも『結婚したら妻が姓を変えて当然』という考えがあったことに気づいたのだと思います」
2人は話し合いの末、婚姻届を提出する前に
お互いの姓についてきちんと話し合わなかったことが水松さんが抱えるつらさの原因かもしれないという結論に。水松さんの取引先の担当が変わるタイミングで、いったん
書類上の離婚をして姓をリセットすることを選択しました。
現在も、以前と変わらず夫・子どもとの3人暮らしを続けています。変わったのは、3人の中で水松さんだけ姓が異なるという点。
「当時保育園児だった子どもの中には既に自分の姓のアイデンティティが生まれていたようで、『絶対に自分の名前(苗字)を変えたくない』と言っていました。その気持ち、痛いほどわかります(笑)。
家族の中で私だけが姓が違うことについて、子どもは理解を示しています。
このような家族の形になってから、姓をめぐる夫婦けんかはなくなり、
“夫婦の一体感”という点では、当時に比べて今のほうがずっと強いと思います。
また仕事の取引先とは、転職前から『水松』という姓を使って積み重ねてきた信頼感をベースに仕事ができているので、『今回も以前の感じでお願いします!』という空気感をとても心地よく感じています」