
J.K. RowlingのTwitterアカウント
2007年、カーネギーホールで開かれた朗読会の場で、ローリングは、ダンブルドアが「ゲイ」であることを公言し、しかもグリンデルバルドに「恋」していたと明言している。
それでファンの期待は、ジュード・ロウ演じる中年期のダンブルドアが登場する「ファンタスティック・ビースト」に寄せられたのだけれど、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』公開前に、デヴィッド・イェーツ監督がゲイ設定を明確に描かなかいことを公言し、ファンから批判の声が殺到。このときも若干とばっちりにみえるローリングは、Twitterで「5部作のうちのたった1本なのに」と反論ツイート。
このツイートを読み解くなら、別にローリングは、ダンブルドアをゲイとして描かないとは言っていない。彼女が、ダンブルドアをゲイとして描き、セクシャリティを表象するためには、表現方法を探る必要があっただけで、早とちりしたファンは、『ダンブルドアの秘密』公開まで待つべきだったのだ。
繰り返しになるけれど、ここ数年、ローリングがトランスジェンダーについて、直接的にも間接的にも差別をほのめかし、助長させてきた、そのすべての発言には、もちろん同意できない。でも、ただ、ローリングが、ダンブルドアに込めた想いには、原作者としての強い慈しみの心や愛情を感じずにはいられないのだ。筆者の主張としては、そこの議論は、分けて論じられ、あるいはその上で批判されるべきものだと思う。
『ダンブルドアの秘密』冒頭場面をみて、ダンブルドアに対するローリングの愛情を感じないだろうか。マグルのカフェでダンブルドア(ジュード・ロウ)が、かつての恋人であるグリンデルバルド(マッツ・ミケルセン)を待っている。ウェイトレスが運んできた紅茶に角砂糖を入れ、スプーンの上で溶けるのをじっと見つめる。そわそわ落ち着かない様子で、彼が現れる瞬間を心待ちにして、静かに目をつむるダンブルドア。こんな乙女な感じでダンブルドアを描くローリングの筆致の、いったいどこに差別的な視点が潜んでいると言うのだろう。
あるいは、映画後半、ダンブルドアとグリンデルバルドの死闘場面。防御呪文のダンブルドアに対して、グリンデルバルドは攻撃呪文。見逃してはいけないのは、追いつめられたグリンデルバルドが直前にクリーデンス(エズラ・ミラー)に放った呪文が緑色の閃光(つまり死の呪文)であったのにもかかわらず、ダンブルドアには赤い閃光の呪文(つまり武装解除のエクスペリアームス)であったこと。ダンブルドアを殺すのではなくあくまで武器を奪い取ろうとしたにすぎないグリンデルバルドの未練は、「この先、誰がお前を愛する?」という捨て台詞が象徴していた。
本来、形はなく、目には見えないはずの愛を、呪文の閃光によって目に見えるかたちで描こうとするローリング。愛は、悪なる者の心に残された唯一の改心の可能性だし、逆に愛故に善から悪に身をやつす者もいる。ダンブルドアとグリンデルバルドという善と悪の二元論が対立するハイファンタジーの世界で、ローリングは、決して二項対立では語りきれない儚い愛の夢(ロマンス)を必ず5部作で完結させる。
『ハリー・ポッターと賢者の石』(1997年)執筆からおよそ20年以上の時を経て5部作に結実させようとしているのだから、ダンブルドアへのローリングの愛情深さは、相当なものだ。
「ハリー・ポッター」シリーズの映画版ですでにダンブルドアに関するゲイ的な痕跡を残し、新たな冒険譚「ファンタスティック・ビースト」シリーズでは、『オスカー・ワイルド』(1997年)で同性愛者として有名な作家ワイルドの恋人アルフレッド・ダグラス卿を演じたジュードにダンブルドアの中年期を委ねる。筆者の読み解きが見当違いでなければ、ゲイに関するローリングの知見は、正しく、妥当で、愛のあるものだと、理解できるんじゃないだろうか?
<文/加賀谷健>
加賀谷健
コラムニスト / アジア映画配給・宣伝プロデューサー / クラシック音楽監修「イケメン研究」をテーマにコラムを多数執筆。 CMや映画のクラシック音楽監修、 ドラマ脚本のプロットライター他、2025年からアジア映画配給と宣伝プロデュース。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業 X:
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