山野辺さんの会社では、職場結婚した夫婦が同じ部署の場合、どちらかが異動になるのが慣例だった。辞令を受けたのは山野辺さん。しかし異動先が不本意だった彼はそれを機に退職し、一念発起してライター活動をスタートさせる。
「実は在職中から、批評系のトークイベントやライターのワークショップに通いつめていました。そうしてこつこつコネクションを広げながら、副業でライター業をやっていたんです」
人当たりの良さも手伝い、独立後も仕事は順調に舞い込む。しかし結婚生活には早くもほころびが見え始めていた。美代さんが山野辺さんとの会話の際、あきらかにつまらなそうな顔をするようになったのだ。
「たとえば、美代から著名な写真家の作品を見せられて感想を求められるんですけど、
僕の感想が、彼女の求める水準に達していないんです」
水準とは?
「批評的なコメントができない、というのかな。突っ込んだディスカッションに発展しない。美代はそれが不満そうでした」

※写真はイメージです(以下、同じ)
写真のみならず、現代美術や映画、文学の話でも同じ。しかし、なぜ結婚前はそうならなかったのか。
「僕の軸足はサブカルですが、写真や美術や文学にまったく疎いということではないんです。美代が話題にする作者名や作品名がわかる程度には、中途半端に知っている。それで一通りの会話の受け答えはできるので、結婚前はそれで問題ありませんでした。でも彼女は次第に、より高度な批評的対話を求めてくるようになりました。簡単な所感程度を口にしても、満足してくれない」
それが「底の浅さがバレた」の意味だ。
「
彼女にとって僕は明らかに、『手応えのない対話相手』になっていきました」
当然、美術展に行った後のカフェでも、感想戦は盛り上がらない。
「沈黙を恐れた僕は、会話が停滞するとやたら『今日の夕飯どうする?』『スーパーで何を買って帰ろうか?』などと言うようになりました。結婚後、週末の食事担当は僕だったので」
週末にふたりで外出する頻度は目に見えて減り、別行動が多くなった。たまにふたりで出かけてもカフェには寄らず、自宅に直帰。しかも帰り道で会話はなく、美代さんはずっとスマホを操作していた。
「
ああ、見限られたなって思いました」
やがてセックスレスになった。
「あまりに営みの間隔が空いてしまってヤバいと思ったので、あるとき思い切って声をかけてみたんですが、きっぱり拒否されました。
今日したくないのか、当面したくないのかどっち?って聞いたら、『当面』と」