生理の血が10分に1回流れる…女性の日常を“普通”に描く映画『セイント・フランシス』がスゴい
中絶をあえて「ライト」に描く
ブリジットは、恋人なのかセックスフレンドなのかもはっきりしない、若い男性との子どもを妊娠してしまい、そして中絶をする。その中絶の後には不正出血(生理の時以外で出血すること)がたびたび起こり、体調も芳しくなくイライラが募っているようにも見える一方で、ブリジットは新しい恋にも前向きで、普通に日常を過ごしている。こう書くとギョッとする人もいるかもしれないが、本作は人によってはとてつもなく重い選択である中絶を、あえて「ライト」に描いた作品でもあるのだ。
ケリー・オサリヴァンは本作の意義として「アメリカで中絶が違法になった州で悩んでいる女性がこの映画を観て、『私の選択は正当だし、実際トラウマになるような恐ろしいことではないんだ』と思ってもらえたらいい」などとも語っている(「GINZA」より)。その通り、中絶を絶対悪のように捉える人や地域はあるし、そうでなくとも当事者が重い罪悪感を持ったり、はたまた周りが中絶をした人を「腫れ物」のように扱ってしまうこともあるだろう。
劇中のブリジットは、中絶をした事実をあまり深刻に考えてはない「ように見える」し、周りもそのことを責めたりはしない。しかし、そのために不正出血が起こっている事実があり、本人が完全に気にしていないわけがない、ともつぶさに思える。中絶をライトに描いたことでむしろ、「心のどこかで中絶のことを気にしているのかもしれない」と、観客は彼女の気持ちを推測しながら観ることができるようになっていた。
そして、物語の終盤では、とある形で、中絶をした人、あるいは当事者でなくとも中絶に対し複雑な気持ちを抱えている人にとって、福音となるとある尊い言葉を投げかけてくれている。「中絶そのものを善だとか悪だとか、そうした二元論で語るよりも、はるかに大切なことがあるじゃないか!」と、それもまた当たり前ではあるが見過ごしがちな重要なことを教えてくれるのだ。
「普通」に描く「今」必要な映画
前述してきたように、本作は主人公が34歳で何者にもなれない未婚の女性で、ナニーをすることになった6歳の少女と友達のような関係となり、その少女にはレズビアンカップルの両親がいて、生理や中絶をライトだがはっきりと描くといった特徴がある。それらを、極めて「普通」のものとして提示していることが、本作の最大の価値だろう。
LGBTQ+の権利、同性婚、中絶、それらをセンセーショナルに描く作品ももちろん良いのだが、こうしてそれらを社会の中に当たり前にあることとして描き、それを持って大きな感動を与えてくれる『セイント・フランシス』は、まさに「今」必要な映画と思えるのだ。
あえて賛否両論を呼ぶポイントをあげるとすれば、主人公のブリジットがわりとズボラで仕事に遅刻しかけたり、恋にも自由奔放だったり、中絶以前に避妊について極端な考えを口にする(これは男性側にも問題があるが)など、人によっては共感できないタイプの人間かもしれない、ということがある。
だが、そのちょっとルーズな性格込みで、「こういう人は普通に社会にいるなあ」と思えること、そんな彼女も社会の一員としてとても大切な存在として描いていることに、本作の優しさがある。
そして、筆者個人は『セイント(聖なる)・フランシス』というタイトルは、「子どもは大人が偏見を持ってしまいがちなことこそ、祝福し当たり前に受け入れてくれる」という、無垢な6歳の少女のあり方を肯定するものだと受け取った。
対して、大人は積み重なった経験や学びがあるからこそ、何かの事象に偏見や一方的な価値観を持ってしまうこともままあるが、その中には一度立ち止まって考えて、普通のこととして受け入れてもいいこともあるかもしれない、というさらなる大きな学びも得られるだろう。
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< 文/ヒナタカ >
ヒナタカ
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF
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