
そんな悩みを持つ主人公の稲垣吾郎は、月並みな表現ではあるが「彼以外にはこの役は考えられない」ほどのハマり役だ。その大きな理由は、稲垣吾郎というその人が「激しく感情を出さない」タイプであることだろう。
思えば、稲垣吾郎は『十三人の刺客』(2010)で、極悪非道の大名を見事に演じていたこともあった。それは稲垣吾郎の良い意味での表立っての感情が読みにくい様が、悪役のサイコパスな印象につながってより恐ろしく見えた、ということだろう。
だが、今回の『窓辺にて』の主人公は、それとは真逆の善性に満ちたキャラクターであり、感情を表にあまり出さないことはシンプルに「穏やか」な印象につながっている。さらに会話の端々からわかる生真面目さ、あるいは稲垣吾郎本人の清廉潔白とも言えるイメージも手伝って、とても信頼できる魅力的な人間に見えてくる。それでいて、良い意味でちょっと世間からズレている、あるいは「天然」なところもあるかわいらしさも、稲垣吾郎というその人の「らしさ」に思えてくるのだ。
勝手な想像にすぎないが、稲垣吾郎もまた、アイドルという多くの人から見られる立場でありながらも、感情をあまり表に出さないことから、理解されなかったり、誤解をされていたことがあったのではないだろうか。実際に稲垣吾郎は『窓辺にて』の主人公に対して、「共感するところもある」「自分が知っている感情だ」と語っていたこともあったそうで、やはり本人のパーソナリティーと一致する役柄だったと思えるのだ。

本作の意義は、「あきらめる」「挫折」「後悔」といった、一見ネガティブな言葉を、ポジティブな考えに変えてしまうことにもある。もっと言えば、「それらの言葉が出てきたのは、それまで誠実に向き合った証拠だよ」と教えてくれるような優しさがあったのだ。
さらに、劇中には「理解なんかされないほうがいいことも多いよ。期待とか理解って時に残酷だからさ」というセリフがある。その時点ではネガティブにも聞こえるのだが、その「誰かに理解されない」こともまた、「救い」と言えるほどのポジティブな価値観へと展開していくことになる。
そして、見事としか言いようがないのがクライマックスおよびラストだ。もちろんネタバレになるので詳細はいっさい書けないが、今までの会話で積み上げた伏線が集約され、静かだが確実な変化が起こっていることに、たとえようもない感動があったのだから。
誰かと悩みや人生について長く話し合っていて、自分とは違う価値観を知り、それが一生の財産になることは現実でもあるのかも、と思わせてくれるのも本作の意義だろう。それでいて、ひとつの答えを押し付けたりはしておらず、観客それぞれが映画から受け取れるメッセージも異なってくるバランスも見事だった。