――子育て中に虐待されたことがフラッシュバックすると描かれていましたが、どんなきっかけで記憶が蘇ることがあったのでしょうか?
あらいぴろよさん(以下、あらい):自分が子どもに優しくしているときが一番多かったです。私は親にそんな風に扱われたことがないので「どうして私は愛されなかったのか?」と疑問が浮かぶ形でフラッシュバックがありました。
――優しくしているとき、息子さんに嫉妬してしまうと描かれていました。
あらい:息子のことが純粋に羨ましかったです。でもこの感情が嫉妬であることになかなか気付けませんでした。
――よそのお子さんが優しくされているのを見て、羨ましいと思ったことはあるのでしょうか?
あらい:よその親子が仲良くしている様子は温かい気持ちで見ることができていました。自分がよその子と接するときは、何の責任もないせいか、純粋に可愛がることができていたと思います。「小さな子が羨ましい」という思いは、自分の子どもが生まれて初めて気づいた感覚でした。
――子育てする中でイライラが募っていった原因はなんだと思いますか?
あらい:虐待のフラッシュバックがある中、息子が生まれてすぐ実家の父の癌・愛人問題が発覚し、母を支えないといけない状態になりました。産後うつになりやすい時期だったのに、余計なものを抱えてストレスが多かったと思います。
――あらいさんが子どもを持つことを決心できたのはなぜだったのでしょうか?
あらい:あんな家庭で育ったせいか、“家族”というものに強い憧れはありました。夫とは交際期間を含めて5年間一緒にいて、その間に愛情表現の仕方が分からなくて理不尽な接し方をしてしまったこともあったのですが、2人で話し合いを重ねたことで私も落ち着いていきました。年齢的なことを考えたのと「ここまでやってこれたから子どもを産んでも大丈夫かな」と思っていました。
――しつけで厳しく注意するのと、虐待につながるような暴言の境目はどこだと思いますか?
あらい:人格否定の有無だと思います。しつけのつもりで叱っていても「だからあんたはダメなのよ」という気持ちが入っていたら、それは親のストレス発散になっていると思います。あと「〇〇してあげている」という自己犠牲や、私のように「〇〇してやってるのにどうして分からないの!?」と逆恨みするような気持ちがあると、よくないほうへ繋がってしまうのかなと思います。もちろん体罰は絶対に無しです。
――よく「愛のある体罰」と言われたりしますが、それに対してどう思いますか?
あらい:愛があったら子どもに手を上げるという一線は超えられないと思います。それは自分を正当化するための言葉だと私は思います。言葉や日々の触れ合いの中で子どもに伝えられていないから、体罰に至ってしまっているのに、それを綺麗な言葉で言い訳しているのではないでしょうか。手をあげてしまうほど余裕がない場合は周りにヘルプを出していくしかないと思います。
――親から暴言を浴びて育った人が、自分の親から言われた言葉を子どもに使ってしまうことをどう思いますか?
あらい:私達は暴言によって親の言うことを聞いていたので「子どもはこれを言うと従う」と学習してしまっているんです。だから子どもの感情を犠牲にしてラクをしてしまうことがあると思います。でも本当はそんなことはしたくない気持ちがあるから、言ってしまったあとすごく後悔する人も多いと思います。そこはいまも私の課題であり一生をかけて考えなければいけないと思っています。でもあまり自分を追い詰めないように心がけています。
――子育てに不安を感じたときはどう対処していますか?
あらい:夫に「私はこういうやり方をしたいんだけど、どうしたらいいかな?」と聞いたり、第三者である学校の先生や小児科の先生に相談しています。
以前は「こんな当たり前のことを聞いたらダメな親だと思われる」と怖かったのですが、できないものはできない。私にとっては100mを9秒で走れないのと一緒なんです。いい意味で、自分の感覚を信じないようにしています。でも「不安になったら周りに聞くことができる」「自分ができないことを分かっている」という点で自信を持っています。