“修業ではなくアイデア勝負の笑いで勝利したが…”論
よって、松本人志の評価は様々です。
杉田俊介氏は、松本の唯一無二性とは修業や学びによってたどり着いた境地ではなく、むしろ教育の欠如からくる無力さをひっくり返したアクロバットだと分析しています。
<松本は実存感覚としての底辺的な無力さから、一足飛びに、笑いと芸能の質を逆転してみせる。完全敗北の意味を変えてしまう。完全敗北しているからこそ、私だけが天才であり、神である、と。もっともつまらないものこそがもっとも面白い。そのような芸能の論理によってすべてをなし崩しにすること。>(『人志とたけし―――芸能にとって「笑い」とはなにか』 晶文社刊 p.84)

杉田俊介「人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか」晶文社
教養の積み重ねを否定して、お笑いを瞬間的なアイデア勝負の競争に引きずり込んだことにより、松本は絶対的な勝利を得たのだというのですね。しかしながら、それは杉田氏によれば<空疎さと尊大さがねじれて一致していく>(同書 p.59)虚無(きょむ)にしかならず、そこに言い知れぬ気味悪さを禁じ得ないと言っているのです。
“知らずに「やってしまっていた」天才による支配”論
一方、杉田氏の認識を共有しつつ、それでも奇跡的に松本の天才性が発揮された例として映画『大日本人』を絶賛したのが、ジャズミュージシャンの菊地成孔氏でした。菊地氏も松本に映画史の素養がないことを踏まえたうえで、こう分析します。
<おもしろそうなこと、自分が表現したい、漠然とした不気味なムード、を現実化する過程で、知らずに「やってしまっていた」のである。僕は関東人なので、次の言葉を正しく使っているか、100%の自信がないのだが、これは天才的な、エゲツないイチビリの行動原理である。ちょっと引っ掻くつもりが、深いタブーに触れてしまう。いちびられた相手の反応は、キレるか、フテるか、黙るか、拍手喝采するか、いずれにせよ、いちびり側に決定されてしまう。天才による支配である。>(『ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本』著・菊地成孔 イースト・プレス刊 pp.7-8)

「大日本人」よしもとアール・アンド・シー