「没日録」が焼かれても、女将軍・家茂と御台・和宮がいたことは揺らがない

大奥(C)NHK
「謀反人は岩倉と薩摩」との文を読んだ西郷は、最初は、これが先帝のものだとの“証拠”はないとしたものの、和宮から「錦の御旗」の件を持ち出され、腕組みをして考え始めた。以前、天璋院が家定(愛希れいか)に話した「現(うつし)に即して考える薩摩の郷中教育」である。形勢をひっくり返す恐れの十分にある、“先帝の文”という現(うつし)を前に、何がよき「解」なのか。
そして西郷が導き出したのが、「ほうじゃ。確か、先代の家茂公も、男にございもしたな」に始まる、“徳川の将軍は男だった、ならば徳川の歴史も恥ずべきことではない”という歪められた歴史だった。
和宮が胸を張り、その町を築いてきた女たちの強さを伝え、「別に歴史なんてどうでもええわ。あんたらのええように歪めたらええ。けど江戸の町には傷ひとつつけんといて!」と言い切った。
「御台様」と頭を下げる西郷自身の、女将軍を下に見る考えは、正直変わっていないだろう。しかしその力強い言葉を、目に涙をいっぱい溜めて聞く瀧山は、和宮の後ろ姿に、家茂公の真の「御台様」をはっきりと見たはず。和宮は、「私では上さんと真の夫婦にはなれへん」と口にしていた。だが、“没日録”が焼かれようと、家茂は、自分の身を捧げ世の中を、人々の行く末を案じていた立派な女将軍・家茂公であり、和宮は、そのただひとりの御台所であった。
「いつだって私」な和宮が、「私らしく」いられた場所が大奥だった
江戸城の無血開城が決まり、大奥も明け渡されることに。
和宮改め静寛院宮となった親子が、京の装束であり、家茂がとりかえばやするはずだった袿を着て現れた。その姿に「これが真のあなた様なのですね」と言う天璋院に、和宮は微笑みながら「何言うてはんの。私はいつだって私です」と返した。
これもまた名言だ。事実、和宮には衣装など関係なかった。だが、彼女自身の内にこもっていた光を、外へと向けてくれたのは、家茂。そして「大奥というのは不思議なところですよね。宮様はもちろん、上様と私も、あの者たちも、誰ひとりとして、お互い血のつながっている者はおらぬのです。他人同士が何の縁か肩を寄せ合い、ひとつ屋根の下に暮らしておるのです」と口にしていた天璋院や、瀧山といった大奥の者たちだった。「いつだって私」な和宮が、「私らしく」あれたのは、大きな疑似家族のような、大奥での出会いがあったからだったのだ。