こうして、生存にかける熱いエネルギーを、暗鬱な言葉で表現するのもいつもの米津節。
同じ傾向を持つ星野源の『アイデア』(2018年『半分、青い。』)にも、<生きてただ生きていて 踏まれ潰れた花のように にこやかに中指を>というフレーズがありますが、星野の場合は、よりマニフェスト的です。政治家のように聞き手に呼びかけて行動をうながす感覚があります。

星野源『アイデア』
星野源が「うちで踊ろう」ならば、米津玄師は“お前らは知らんが俺はうちで踊る”なのです。
その点で、米津玄師は日本的な作家像を、より忠実にフォローしていると言えるでしょう。
昭和の文芸評論家、伊藤整(1905-1969)は、『近代日本人の発想の諸形式』という文章の中で、こう書いています。
<自分の生命が無に帰し、この世の自然と人間の総てが自分から失われるという意識を持っている人間にとっては、虫も木の葉も、嫌悪と憎悪とで今まで接していた人間も、悉く美しい本来の姿を現わす。なぜなら、その人間にとっては、その時、現世における利害の争いと虚栄の執着が失われ、自然と人とは、その単純な存在として意識されるからである。>(『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』 伊藤整 岩波文庫 p.42)

米津玄師『Lemon』
<暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている>(『Lemon』)や、<いつかみた地獄もいいところ>(『KICKBACK』)など。そして極めつけは、<歪んで傷だらけの春 麻酔も打たずに歩いた 体の奥底で響く 生き足りないと強く>(『馬と鹿』)』といったように、米津玄師のヒット曲には、驚くほどこの感性が貫かれていることに気づきます。生存する活力や権利を阻む障害に対する否定的なエネルギーを根拠とする、決定的な孤絶。