Mrs. GREEN APPLE、MV以上に「曲そのもの」に強烈な違和感。なぜ“間延びした歌詞”と“ぎこちないメロディ”になってしまったのか?
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」騒動の波紋が広がっています。
MVは公開停止、キャンペーンを展開するコカ・コーラも全ての関連映像の放映を停止すると発表。所属レコード会社とバンドのフロントマン、大森元貴が揃って釈明文をリリースし、一時は事態が収束するかに思われました。
しかし、イギリスBBCの報道で海外にも情報が拡散され、深刻度を増しています。
この件では多くの有識者がコメントを出しました。ほとんどは浅い歴史認識や、教養のなさを指摘したり、バンド周辺のガバナンスについて疑問を呈したりするものでした。筆者もそれらの意見にはおおむね同意します。
けれども、一点、どうも引っかかる部分があるのです。それは「コロンブス」という曲そのものへの違和感です。過去のMrs. GREEN APPLEのヒット曲と比べて、この曲の歌詞だけが飛び抜けて異質なのです。同じ大森元貴が書いたものとは思えない、それぐらいに筆跡が違う。
くわしく見ていきましょう。
まずおかしいのは、「コロンブス」全体における意味の取れなさです。
<炭酸の創造>だとか<愛を飲み干したい>などのフレーズがコカ・コーラをイメージさせるための凝った言い回しなのは仕方ないとしても、メッセージの核にあたるフレーズが迷走しています。
<いつか僕が眠りにつく日の様な 不安だけと確かなゴールが
意外と好きな日常が 渇いたココロに注がれる様な
ちょっとした奇跡にクローズアップ>
<いつか君が乗り越える寂しさの様な 平等な朝日と夜空
胃が痛くなる日常が 渇いたココロをしゃんとさせる様な
ちょっとした美学にクローズアップ>(「コロンブス」より)
どちらも「クローズアップ」というオチにたどり着くまで、「~様な」という比喩(ひゆ)を二度も、しかも長い尺のフレーズで挿入しています。これはかなり意図的に使わない限り間延びしてしまう書き方ですし、現に「コロンブス」ではそうなってしまっている。
ところが、二度の「~様な」の前に、必ず「渇いたココロ」が来ることに気づきます。つまり、これは絶対に入れなければいけないワードだったのではないかと想像できるのです。たとえば“コカ・コーラが注ぎ込まれると渇いたココロがしゃんとする”というイメージですね。
この「渇いたココロ」を際立たせるために脚色するフレーズが雪だるま式に投入されている。比喩が積み重なることで文脈がふくらむわけでもなく、ただ並列でだらしなく膨張(ぼうちょう)している。会議のホワイトボードで整理しきれなかったものをつめこんで歌詞にしてしまった感じでしょうか。
つまり、歌を書くという目的のために書かれた歌ではなく、キャッチコピーを強化するためのプレゼン資料としてひねり出されたかのごとき歌なのですね。