思い返せば、千尋は一貫して良いやつムーブしか見せていない。『あんぱん』の中でこれだけ千尋に注目したくなるのは、俳優・中沢元紀の演技力があってこそだろう。柔道有段者であることに納得感を与える183センチの長身。短髪にすることで聡明な印象が一層増した顔立ち。千尋というキャラのビジュアルにぴったりハマっている。

また、中沢といえば2023年の日曜劇場『下剋上球児』(TBS系)で演じた犬塚翔を思い出す人も多いだろう。名門シニアでエースを務めるなど、才能ある投手の翔。スポーツドラマではどうしても役者がやるとその動作がぎこちなくなり違和感を覚えやすいものだが、翔の投球フォームはしなやかで力強く、中沢の器用さが光っていた。そのおかげで、『下剋上球児』が本格的な野球ドラマであることに説得力を持たせていた。
そんな中沢の器用さは、『あんぱん』でも遺憾なく発揮されている。嵩からは「ここにもらわれてきてから、おじさんとおばさんの顔色ずっとうかがって、優等生になって」、伯父・寛(竹野内豊)からは「おまんは我慢しすぎる。もっとわがままに生きりゃあえいがじゃ」と言われる通り、千尋は空気を読みすぎるタイプだ。明るく強く振る舞いながらも、本心を隠している姿はどこか切ない。

とりわけ、第32回の浜辺でのシーンは印象的。ケンカしていた嵩とのぶが無事に仲直りし、健太郎(高橋文哉)のギターに合わせて嵩たちが歌う。手拍子をしながら嵩に笑顔で視線を向けているのぶの姿を見て、千尋はどこか切なげな表情を浮かべる。
千尋はのぶに気があるような雰囲気を見せており、第33回でのぶの妹・メイコ(原菜乃華)に恋心を悟られるも、うまく周囲には隠している。この千尋の繊細な心の揺れ動きを、中沢は表情や目線でもって巧みに表現している。だからこそ、千尋の気持ちを思うとより強く心が動いてしまい、寛と同様に「わがままになってほしい」と望んでいる自分がいた。
※以下、これからの展開に関する史実に触れています。ネタバレにご注意ください。