これについては、ある仮説がある。
著述家の湯山玲子氏は、その著書『男をこじらせる前に』(KADOKAWA)の中で、こんなことを書いている。“男らしさ”がもはや男だけの個性ではなくなり、男女の性差というものがなくなりつつある今、それでも“男性に特有の性質”というものがあるとしたら、それは心ここにあらずのはかなさや危うさといった「上の空」感にある、と。女性は、自分にはないその“自分にも他人にも執着のない感じ”にセクシーさを嗅ぎ取り、惹かれてしまうというのだ。

『男をこじらせる前に 男がリアルにツラい時代の処方箋』(KADOKAWA)
また、結婚や恋愛への卓越したアドバイスで知られる川崎貴子氏は、自身の連載
「愛と悲鳴の婚活道場」Vol.1の中で、「(女性が感じる)男性の一番のセクシーさとは、『無頓着』なの」と語り、逆に「男性に『作為』を感じた瞬間引いてしまう」と忠告する。
漫画家の鳥飼茜氏も、
「日刊SPA!」のインタビューで、「男の人のほうが楽観的で神経質にならないというか、自分の行動と他人の行動をあんまり結びつけて考えない」と、やはり男性特有の“感情への無自覚さ”を指摘。「女どうしでは得られない、特有の楽観性や公平性、気にしなさみたいなものを男の人に感じていて、そこに惹かれてしまうことがある」と述べている。
男らしさ・女らしさの押し付けにひときわ敏感で、フラットなジェンダー観を持つはずの女性識者たちが、
<無自覚・無頓着・無執着という空虚感>をこぞって“男性に特有の性的魅力”として感じているのが興味深い。言うなれば、ジェンダーレスになっていく社会で、これが最後に残された性差なのかもしれない。
そして、高橋一生のセクシーさとは、まさにこの空虚感のことではないだろうか。
ただし、人間の長所と短所は表裏一体の関係にある。“空虚なセクシーさ”という美点は、“自分や他人の感情への鈍感さ”という男性に見受けられがちな欠点と、諸刃の剣である。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)で、一生の演じる佐引が、練(高良健吾)に馬乗りになって「金貸せー、金貸せー」と迫るときの淡々とした怖さを思い出してほしい。
しかし、それすらもマゾヒスティックな性的興奮の材料に変換できてしまえるのが、人間の業深いところ。
高橋一生が時折見せるあの虚ろな瞳で、ゴミを見るような目つきで無愛想に扱われたい、という性癖を持つ女性も、少なくないはずだ。

『民王 スピンオフBOOK【貝原編】』(角川SSC)表紙
そう、高橋一生は常に二面性をあわせもっている。空虚な真顔で私たちを不安に陥れたかと思えば、無邪気すぎる笑顔でこちらをデレさせるのだ。ツンデレでもヤンデレでもない、
“空虚デレ”とも言うべき振れ幅で、こちらの気持ちを不安定に揺り動かす。それはまるで、暴力や不機嫌で怯えさせながら「こんな俺でごめん」とすがりつき、「やっぱりこの人なしではいられない」と思わせて共依存に持ち込む、DV男の危うい魅力に似ている。高橋一生は、表情だけでそれをやってのける稀代の色男なのである。
エイの裏側は、人懐っこい笑顔に見えるが、実は顔ではない。そのフェイク感も含めて高橋一生って感じがする。……といったようなことを、誰かがTwitterでつぶやいていた。正直そこまで考えていなかったので、深読みしてくれてありがとうございます、という気持ちだ。
だが、これってかなり言い得て妙だと思う。空虚とはつまり、“からっぽ”ということでもある。これまで男性からの暑苦しい“男らしさ”の押し売りにうんざりしていた女性たちは、こちらが
自由に願望や妄想を注いでもこぼれない“容れ物”を求めていたのではないだろうか。
高橋一生の魔性の正体とは、エイの裏側のように、私たちが見たいものをそこに見せてくれる“萌えの受け皿”であることなのかもしれない。
<TEXT/福田フクスケ>