でも、今振り返ってみれば、そうやって一緒に最期の瞬間を迎える準備ができたことは「幸せなことだったのではないか」という気がします。
わさび園の水で涼むケフィ
老いていくこと、病気が進んで行くということはケフィにとっても恐怖だったはずです。目が衰え、耳が遠くなり、鼻も利かなくなっていく自分。立ち上がることができなくなり、排泄が難しくなり、ゴハンを食べることも難しくなっていく自分。息を吸って吐くことにさえ、膨大なエネルギーを使わなければならなくなっていく自分。
そうやって死に近づいていく心細さを語ることができない分、よけいにケフィは死の恐怖をひしひしと感じていたのではないかと思うのです。
そんな不安と苦しみのなかにケフィをひとりぼっちにせず、共に苦しんであげられたこと。愛する者をひとり恐怖に向き合わせるのではなく最期への道を一緒に歩んであげられたこと。それはとってもありがたいことだったのではないかと、本当につい最近、深く感じ入るようになりました。
きっかけはふたつあります。
ひとつは私が取材を受けた
「小林麻央さん逝去」についての女子SPA!の記事を読んだことです。記事の最後は「死は悲劇的なハプニングではなくて、ずっと前から覚悟はできていたのです。でも、覚悟と絶望とはなにかが違う。そんなことを思い返しました」という、印象深い言葉で結ばれていました。
絶望とは、望みを失ってどうすることもできずに呆然とすることです。対して覚悟とは、困難や辛いことを予想して、それを受けとめるための心構えをすることです。愛する者の命の火が消えていくことを受け入れ、そのためにできる限りのことをすることです。そう考えるとやはり、覚悟をともなう看取りと絶望しか残さない悲劇的な死は大きく違うのではないかと、考えさせられました。
もうひとつは、その取材を受けたのと同時期に、まさに交通事故というハプニングによって愛猫を死なせてしまったことです。ケフィのように共に死へと臨んであげることもなく、不安と恐怖のなかで、ひとり逝かせてしまったのです。
<TEXT/木附千晶>
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【木附千晶プロフィール】
臨床心理士。IFF CIAP相談室セラピスト。子どもの権利条約日本(CRC日本)『子どもの権利モニター』編集長。共著書に『子どもの力を伸ばす 子どもの権利条約ハンドブック』など、著書に『
迷子のミーちゃん 地域猫と商店街再生のものがたり』など