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我が子が発達障害だったら…ピアニスト野田あすかさんと両親の35年

 発達障害のピアニスト、野田あすかさん。

 生まれてからずっと発達障害だと知らずに過ごしてきたために解離性障害を起こし、ご両親も対応に苦しんできた話を前回お伝えしました

野田あすかさんと家族

野田あすかさんと両親

 22歳ではじめて発達障害だと診断されてから、あすかさんは「今までできなかったことは、自分の努力が足りなかったせいではなかった」ということがわかって安心したといいます。一方、ご両親は反対に「娘の障害を受け入れることができず、絶望感を味わった」といいます。

 あすかさんを育てていく中で、ご両親の対応はどのように変わっていったのでしょうか。

発達障害だとわからないまま苦しんだ両親



「高校に入学してすぐ不登校になって、いじめもあって学校にいけなくなりました。最初の1週間ぐらいでしたかね。

 それから毎日保健室に通学して、保健室から帰ってくるっていうような状況でした。いじめはないという話を学校から頂いて安心していたんですけれども、やっぱり教室には入れないっていう状況がずっと続いて、結局その後転校しました。

 次の高校へ行ったら、音楽の先生が『あすかちゃん、ちょっとピアノ弾いて』とか、色々と親切にしてもらいました。自分の居場所がちゃんと見つかったんだと思います」(父親:福徳さん)

 ピアノを弾くことで居場所を見つけたあすかさん。最初は成績があまり良くなかったのですが、その後メキメキと学力が伸びて行き、現役で国立の宮崎大学に合格します。この時、ご両親は両手を上げて喜んだと言います。

ピアノ ところが、入学後すぐに解離が始まって、リストカット、夜中の徘徊、異物を飲み込むなどの行為が続き、あすかさんは入院することになります。

「リストカットしたときは本人は覚えていないんですね。解離した状態でリストカットして、直後に気がついて『切ってしまった』みたいな。

 その後に慌てて我に返るっていう。自分で病院に電話して行ったりしていました。

 本人は解離が起こるのを怖がっているんですね。私が仕事しているときに病院から電話がかかってきたり、そういうことがしばしばありました。私たち夫婦は共働きで宮崎に住んでいました。

 私自身は福岡や東京に単身赴任したりして全国を回っていましたが、事あるたびに病院から『すぐ帰ってきてください』と言われ、福岡から夜中に飛んで帰ってきたことは何回もあります」(福徳さん)

応援してくれる人もたくさんいる



 当時、母親の恭子さんは高校の先生をしていて夫婦共働きのため、24時間あすかさんにつきっきりというわけにはいきませんでした。解離性障害が起こるたびに離れている父親が戻ってこなければならず、両親は精神的にも肉体的にもつらい日々を送っていたといいます。

「2人とも働いていたので、支援センターに助けていただきました。私たち夫婦が病院で薬をもらうのにも、その日程に行けない時には、センターの方が一緒について行っていただいたりして、本当に助けられました。

 娘が発達障害だと公表してから、応援者もたくさん現れました。時間はかかったけれども、今では本当にたくさんの方々に応援していただいています」(母親:恭子さん)



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早期発見が大事…でも親はなかなか認められない

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