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RADWIMPS、軍歌と叩かれてすぐ出した謝罪文の幼稚な“愛国心”

 そういう点で、野田氏の“日本愛”は危ういのですね。愛が強すぎて(本当に強いかどうかは知りませんが)、物事の前提が見えなくなってしまう。そのため、ごく単純な論理すら組み立てられなくなり、“日本人は特別だ”といった幼い全能感が生じてしまうのではないでしょうか。

5年前の「五月の蝿」にもにじみでる幼さ

 さて政治的な興味から注目された「HINOMARU」ですが、野田氏の“幼い全能感”は他の曲からも見て取ることができます。「五月の蝿」(2013年、作詞・作曲 野田洋次郎)という曲が典型的ですね。上っ面だけ暴力的な言葉の羅列によって、とりあえずセカイと個人が対決しているような雰囲気を作る。そんな不可解な戦いの中で、どういうわけか重要な真理を知った気になってしまう。 君が襲われ身ぐるみ剥がされ レイプされポイってされ途方に暮れたとて  その横を満面の笑みで スキップでもしながら鼻唄口ずさむんだ> <激動の果てに やっとたどり着いた僕にでも出来た絶対的な存在  こうやって人は生きてゆくんでしょ?生まれてはじめての宗教が君です> 「こうやって人は生きてゆくんでしょ?」と言われても、違うんじゃね? としか言いようがないのですが、ともかく、世間一般から隔絶した形でしか人間を描けない点が、日本や日本人を世界と切り離して神聖視してしまうことと通じているように感じるのですね。“他とは違う”とか“特別である”ということへのこだわり。 「HINOMARU」と「五月の蝿」はそれぞれ異なるテーマの楽曲ですが、その根っこにあるのは“特別”を求める野田氏の痛切なまでの凡庸さなのではないでしょうか。もっとも、この凡庸というやつこそ取り扱い注意なのですが……。  こうした批判に対しても、“表現の自由がおびやかされる”と訴える人達もいるようです。もちろん、筆者は野田氏に対して“今すぐ「HINOMARU」を撤回しろ”とか“こんな歌詞を書いたのだから謝れ”なんて言った覚えはただのひとつもございません。好きなように書いた曲に対して、好きなように意見や感想を言う。それだけの話です。  野田氏が「みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。」と言うのであれば、「海行かば」なら歌いたいけど、とてもこんな歌はうたえませんと返すまで。“日本が好きで何が悪い”と言われれば、その勇ましいかけ声に言葉遣いが追いついていませんよと指摘するまで。  思想信条が悪いのではありません。その着想や表現の仕方に見過ごせない不具合があるから「HINOMARU」に対してNOと表明するのです。  表現の自由を訴えるのならば、遠慮のない批判を突きつけられたとしても、それを受け入れる覚悟とセットでなければ成り立たないはず。何より残念だったのは、当の野田氏がその機会を“謝罪”という形でうやむやにしてしまったことなのではないでしょうか。  というわけで、色々と考えてみましたが、それにしても野田氏は一体誰に何を謝っているんでしょうね? <文/音楽批評・石黒隆之> ⇒この著者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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