離婚届を書いて裕一郎に渡した乃里子は、駅まで彼を送っていく。ところがハンドルを握る彼女に変化が起こる。「裕一郎」と言いかけて、紗和に名前を呼ぶなと言われたことが蘇るのだ。彼女のケガは転んだわけではなく、自殺未遂だった。彼のいない人生に絶望し、それでも
なんとか生きていこうとがんばっていたところへ、愛した男の名前すら呼べなくなる自分。この人と本当に縁が切れる瞬間を、乃里子は認めたくなかったのだろう。
車はブレーキをかけないまま崖下へと突っ込んでいく。
北野は即死、乃里子は大けがをして生き残る。

映画公開時のキャッチコピーは「決して、もう二度と。せめて、もう一度。」/画像はビデオマーケットのプレスリリースより (C)2017フジテレビジョン 東宝 FNS27社
そのころ、紗和は地元の人たちの気持ちを変えつつあった。盆踊りに誘われ、晴れやかな笑顔で踊る紗和。北野と乃里子の車の中での緊張感と紗和の笑顔が交互に映る。
不倫の映画だから、結末はどちらかが死ぬしかないのかもしれないが、これでは40年前の不倫映画と変わらない。さらに紗和のお腹には新たな命が宿っていたというオチまでつく。不倫という名の恋愛を美しく彩る必要はないが、燃え上がる情熱と恋情を体の奥底に封印して、ふたりは3年間離ればなれで生きていたのだ。もちろん、不倫は周りを傷つける。それでも映画である。道徳観とは別の結末はなかったのだろうか。映画に昇華してさえも、この結末しかなかったのだとすれば、この国の自由度や寛容度はあまりに低い。
最後に死さえ覚悟しながらハンドルを握る乃里子が、「
どうして私ではなく、あの人なの?」と北野を問い詰めるシーンがある。妻が夫にいちばん聞きたかったことだろう。北野は「
わからない、わからない」と答え続ける。そして最後に「
紗和が好きなんだ」とひと言つぶやく。その瞬間、車がバウンドしていく。
恋という関係は、そのひと言がすべてなのだ。「わからないけど、あの人が好き」。
「好き」という気持ちが人生を賭してもいいほど強ければ、それは誰にも止めようがない。それはどんなに長く連れ添った配偶者であっても、正義をかざして不倫を断罪する赤の他人でも、止めようがないのである。
おそらく死んでも北野の紗和を思う気持ちは生きている。そして紗和の中にも……。だから死をもってエンディングとするこの映画が、どこか不可解に思えてしまうのだ。
<文/亀山早苗>
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【亀山早苗】
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『
復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数