しかし、このように感じたものを自分の中にふんだんに取り込む豊かな知覚は、他者に対する恐怖心と表裏一体の関係にあるのだといいます。高橋さんが小学校一年生のころ、先生から“人の目を見て話しなさい”と注意されたとき、母親にこう言ったのだそう。
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「『目を見て』と言うけど、目を見たら瞳の中に景色が映ってるやん。目を動かすたびに景色も変わるやん。いちいち景色が変わるから、忙しくて話すどころではない」>(p.209)
感性が研ぎ澄まされているので、情報がオーバーロードしてしまう。だからメールやチャットでは上手に会話できても、実物の動く人間の表情を目にしてしまうと、処理すべき事柄が増えてしまうためにパニックに陥る。
仮想空間で饒舌なラレさんも、<
「人間が一番難しいよ。お客や同僚、両方だね。いろんなことを一度に言われて、いっぱいいっぱいになってしまう」>(p.85)と語っていました。
そのため、これまではこうした“症状”に対処するために、医療や福祉的な視点から自閉症が扱われてきたわけですが、著者はそんな従来の方法に問題提起をしています。視覚イメージや音、匂いといった具体的な質感で世界を強烈に体験する人たちに対して、
社会や教育システムの都合で、彼らを“障害”にカテゴライズしてしまっているのではないか、と考えるのですね。

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現代の世間の仕組みは、その大半が「言葉」を媒介とした認知方法によって運営されている。学校教育では、美術や音楽、体育といった科目もあるけれど、やはり主要科目は「読む・書く・聞く」ことを媒介として教えるし、それが上手な場合には「できる子」とみなされる。>(p.257)
でも、だからといって、世間一般の既成概念が形作る世界だけが正しいのではないはずです。多くの人にとって受け入れやすい“とりあえずの正解”が、永遠に取り替えのきかない絶対の真実でなければならない理由もありません。現に、大きな転換点を迎えるこれからの時代、当たり前に思っていた常識は通用しなくなりつつあるのですから。