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氷川きよしの和訳「ボヘミアン・ラプソディ」がやっぱり変なわけ

 2月4日放送の『うたコン』(NHK)で、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」の日本語カバーを、テレビで初めて歌う氷川きよし(42)。ところが、このカバーが賛否両論を呼んでいるのです。  昨年12月12日のクリスマスコンサートでライブ初披露した際の様子がニュースで流れると、ネットには微妙な反応が。“そもそも日本語に合わない”といった意見や、“なんかめちゃくちゃ笑った”なんて感想もありました。
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「かなしーまなぁーいでー」…言語が違う難しさ

 もちろん、氷川きよしとフレディ・マーキュリーの歌唱力を比較するのはナンセンスですし、ロックバンドのサウンドを演歌、歌謡曲のフォーマットに落とし込む苦労も考えなければいけません。クイーンサイドの許可を得るため、原曲詞に忠実にならざるを得なかった事情もあるでしょう。  しかし、それらを考慮に入れても、日本語版「ボヘミアン・ラプソディ」には拭い難い違和感があります。それは、言語が変われば、息遣いや間の取り方も変わるということ。「ボヘミアン・ラプソディ」のメロディは、英語で物を感じ、考えを組み立てていく経緯を経てあの形になっているのであって、音符の数に合わせて日本語を落とし込んだところで、ひとつながりの歌になるわけではないということですね。  たとえば、<Mama,ooh Didn’t mean to make you cry If I’m not back again this time tomorrow>が、<かなしーまなぁーいでー もしぼーくーがかえーらーなくってーもー>になってしまうと、言っていることの意味が近かったとしても、歌の与える印象そのものが軽薄になってしまうのです。奇妙なアクセントと間延びした母音が、言葉から統一感を奪ってしまう。意味を追いかけるほどに、音楽から切り離されてしまう。  そのことによって、英語詞の発音がもたらす音楽的な効果が失われ、メロディのうねりと、歯切れよいリズムも消えてしまう。結果、楽曲全体にほころびが生じてしまうわけです。

髭男dismを日本語のまま歌った米グループの場合

 話を分かりやすくするため、逆のケースを考えてみましょう。アメリカのアカペラグループ、PentatonixによるOfficial髭男dismの「Pretender」の日本語カバーがいい例です。日本人の耳からすれば、拙く聞こえる部分はあるにせよ、アクセント、強弱、息継ぎが自然に再現されている。その前提を守っているからこそ、彼ら独自のハーモニーがより際立って聞こえるわけですね。  もちろん、日本語で歌えば話題になるという判断もあったでしょう。それでもPentatonixのカバーは、言語と音楽が切っても切れない関係にあることを教えてくれます。「Pretender」のメロディは、あの日本語ならではの粘り気に満ちた押韻がなければ魅力が半減してしまうのです。
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氷川きよしには英語で歌ってほしかった
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