「FOLLOWERS」では、女に生まれたからには子どもを産まなくちゃという思いがまるで、ファッションアイテムのコレクションのひとつのように描いているように思われてしまう描き方。
いまは、男とか女とか分ける時代ではないし、子どもを生み育てながらどう働くか、様々な方法を考える時代にもかかわらず、仕事も子供も分母200%と、炎上広告のコピーみたいなセリフで、お金があるなら預けて仕事しろ、と怒る人が出てきてしまう。#KuToo時代にあえて、高いヒールのルブタンを履く矜持を描くところも、ズレているっちゃズレている。
もともと、蜷川実花は、女の子ならではの視点で撮られた写真という、男性の権威者たちがつくったジャンルからデビューしたという出自が、いまだにマイナスに働いているともいえるだろう。ちょうど、今年、その文化のひとりとされていた長島有里枝が、『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』という著書を上梓したタイミングもあり、ますます蜷川実花に逆風が吹くのである。
映画やドラマには、◯◯組や◯◯ファミリーなどと呼ばれる、監督やプロデューサー作品の常連の俳優がつきもの。自分の世界をよく理解してくれて、阿吽(あうん)の呼吸で仕事ができる才能は大事にしたいのは当然なのだが、やりすぎるとはなにつくところがあって、蜷川組の場合もSNSなどで仲良しアピールが盛んな感じがするし、「FOLLOWERS」はとにかくお知り合い総動員で、派手さのみで勝負しているところに遊びと仕事が混ざってしまっているような印象を受ける。
「仲良し」はみんな好きで、タレント同士がSNSにアップする2ショットや誕生パーティーの集合写真や仲良しエピソードを読むことは大好物だが、蜷川実花の場合、なぜか、どうせ私たちには関係ないし……という激しい疎外感に苛まれるのである(他のタレントだって一般人は蚊帳の外なんだけれど)。
どんなに蜷川実花を叩いても、彼女は困らないイメージがある。メンタル強そうだし(あくまでイメージ)、地位も揺らがなそうだし、経済的にも困らなそう。
蜷川実花を「古い」と曝(さら)すことは、性差や年齢、出自などを差別することとは別枠として、なぜか知的な職業の人には認められているようなところがある。
彼女を批判することで、現代をキャッチする感覚の正当性を確かめることができ、なにか不思議な満足感を得られるのである。