35歳で気づいた“性への違和感”「隠す・流す・合わせる」が当たり前だった
こんにちは、恋愛ジャーナリストのおおしまりえです。
ここ数年、性の常識がアップデートされている気がします。例えばセクハラや痴漢問題、セックスの同意や避妊について。また、子どもへの性教育も、時代の流れにそって大きく変わろうとしています。
一昔前であれば話題にしにくかったテーマなのに、どんどんと認識や常識が更新されて、たびたび問題として取り上げられる。これらの情報と接すると「当たり前とは?女性の権利とは?どこのラインが正解なんだっけ?」と迷うときがあります。そうして生活していると、自分の中に漠然とした“抑圧”があると気付き始めました。
昭和60年生まれの私は、記憶をたどるときちんとした性教育はおろか、フェミニズムの概念も教えられず育ったように思います。
最初の性教育を受けたのは、おそらく小学校高学年の頃。しかし、具体的な仕組みや行為についての解説を丁寧に教えられたのではなく(おそらく、教わってないのではなく忘れている気もしますが…)、当時担任の先生が「アムロちゃんも先生も、こういう事をしたから子どもができたんです!みんなしてるんです!」と“なにか”を力説していたことだけが鮮明に残っています。
このころの純粋無垢な私は、何をしたら子どもが出来るのか、自分の中から出る経血が何か、これらがどう関係しているか、結びついていませんでした。その結果、なんと中学生になるまで、子どもとは両親が仲良く手をつないで布団で寝ていると出来るものと思っていました。今でこそ微笑ましい勘違いだと思いますが、ちょっと遅いかなと思ったりします。
その後、私は、保守的な私立女子校に進学します。そこの教えの基本は、気品ある女性となり、男性を支える良妻を目指すことを善とする教えだったと解釈しています。校風と合わずに2年で退学してしまいますが、女性性や女性の体について、あまり正しく教わった経験のないまま思春期へと突入していった10代だったと記憶しています。
こうしてろくな知識を持たずに大きくなった私は、「隠す」「流す」「合わせる」という処世術を強く体になじませることになります。生理は隠し、セクハラは上手く流し、性行為では相手の機嫌を優先して合わせる。それが1番生きやすいと、楽に生きるために当然のことだと思うことにしていました。

ちゃんとした性教育って受けたっけ?
性について「隠す」「流す」「合わせる」が当然
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