結婚して子どもが生まれるやいなや、彼は変わった。
「いつまでもバイトはしていられないと就職したんですよ。それもかなりのブラック企業。疲弊しながら仕事をして、ストレスがたまっていった。
私は何度も、バイトでもいいし、あなたは好きなことをやめなくていいと言っていたのに、彼は『いや、家長としてがんばらないと』って。
私、そういうのがとても嫌だったんです。同棲しているときと変わらない生活をしたかった。でも彼は勝手に『古き良き時代の夫道』を暴走し始めてしまった」
休日に近所の公園によちよち歩きの子どもを連れていき、ベンチで眠りこけていたこともあった。顔なじみの近所の人が見ていてくれたからいいようなものの、そこまで無理して「理想の父親」になる必要はないと、ノリコさんは彼をなじった。
「あなたはあなたのままでいい、と何度言ってもわかってくれなかった。そのうち、私と子どもがいる限り、彼はこうやって無理を続けるのかと思ったら、なんだか彼の人生がかわいそうになって……。音楽もやめちゃったしレコードもいつの間にか売っていて。彼が私の好きな彼でなくなっていくのが悲しかったですね」
ケンカも絶えなかった。そしてとうとう、彼は駅のホームで倒れた。心筋梗塞だった。1ヶ月の入院を経て退院したとき、彼は翌日から仕事に復帰すると言い、彼女は自宅療養するべきだとしてまた大げんかになった。
「その翌日、私は別のマンションを契約しました。今も子どもとふたりで住んでいます。彼が結婚によって変わっていくのを見ていられなかった。一緒に歩こうと思えなくなった。最後、私がそう言ったとき彼は泣いていました。私も泣いた。
彼の責任感の強さが、あんな結果を招いたんでしょうけど、私は彼がどんどん自分らしさをなくしていくのが怖くてたまらなかったんです。友だちはみんな、『ちゃんと勤めてくれたのに、どうして?』と言うんですが、ちゃんと勤めてくれなくてもよかった」
結婚生活は続かなかったが、彼は徐々に元の彼に戻りつつある。ブラック企業を辞めて音楽関係のイベント会社で契約社員として働き始めたが、昨年来のコロナ禍で会社が倒産。
「ついてないですよね。でも彼はいつかまた音楽関係で働ける日までがんばるって、けっこう前向きです。子どもにもよく会いに来ます」
いつか彼が充実した日々を送れるようになったら再婚も考えていたノリコさんだが、今は考えが変わった。
「お互いに結婚しないから、ベストな距離でいい関係を作れると気づいたんです。彼とはこのままの関係がよさそうです」
世間から見たら、アルバイトをしていた彼が結婚を機に定職についたのは、いいことだろう。だがそれが彼のよさをすり減らしていくことになったとき、ノリコさんの心は痛んだ。
それは彼女が本当に彼をひとりの人間として尊重しているからではないだろうか。結婚生活に縛りつけなかった彼女の広い愛を、彼もおそらく感じ取っているに違いない。
―シリーズ「
結婚の失敗学~コミュニケーションの失敗」―
<文/亀山早苗>
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