笑うだけではすまされない“欺瞞”や“残酷な事実”も示す

そんなふうにギリギリ許されるラインを“攻めた”コメディではあるのだが、まったく不快に感じることがなかったというのも驚異的。
その大きな理由は、それらのギャグの裏で登場人物それぞれの“切なくて痛々しい”感情や言動が確実に存在し、だからこそバービーというおもちゃはもちろん、人間への愛情やリスペクトが伝わってくる、そして現実の社会にも存在する問題に真摯に向き合っているとわかるからだろう。
例えば、初めこそ人間の世界を謳歌していたようにも見えたバービーは、人間の少女からとあるショッキングなことを聞かされる。
バービーの世界は表向きには完璧かつハッピーで、しかも多様な人種や職業のバービーがいて、なるほど表向きには“多様性”に大いに配慮しているように思えるのだが、少女はそれとはまったく逆の、バービーというおもちゃの“画一的”な見られ方を残酷にも示すのだ。
さらに、ケンは人間の世界で、いわゆる“マッチョ”な男性たちの姿を目にする。そのマッチョイズムは良い意味でカリカチュアされていて笑ってしまうのだが、だからこそケンが強い憧れを抱くことが視覚的にもわかりやすくなっている。
その後に起こる出来事もまた極端ではあるのだが、それは同時に世の男性が囚われてしまいがちな価値観として、胸を締め付けるものだった。
そんな風に、見た目だけはハッピーな世界が描かれたり、または極端さに笑ってしまうコメディでありつつも、そこにある「笑うだけではすまされない“欺瞞”や“残酷な事実”」を見逃さず、それ自体を痛烈な風刺として示した作品でもあるのだ。
“アクセサリー”的だったケンのキャラクター造形のこだわり

本作は女の子のおもちゃのバービーを題材にした、女性を主人公にした映画でもあると同時に、“男性のためのフェミニズム映画”にもなっていると言える。
前述のケンが目の当たりにするマッチョイズムの風刺もそうだが、そもそも現実のおもちゃのケンは、バービーにとっての“アクセサリー”的な側面が強く、家や仕事も何も設定されていなかった。
だからこそ、グレタ・ガーウィグ監督は映画にするうえで、ケンたちの連帯感を強め、ケンの馬や家のドアなどの細部までこだわり、登場人物の性格がはっきりと見えるように工夫したのだという。(ラジオ番組「アフター6ジャンクション」8月9日放送のグレタ・ガーウィグ監督インタビューより)
また、たくさんいるケンの中で、ただひとりだけいるアランというキャラクターは、(ケンたちが憧れを抱いた)マッチョイズムになじめない男性のメタファーとも捉えられるだろう。
たくさんのバービーやケンがいて「多様性がありますよ」と示した場所でも、そこに迎合できない男性が(女性も)いるかもしれないという、これもまた現実の風刺に思えたのだ。