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“その筋の人”に恐喝されたことも…「はじめてのおつかい」を生んだ人気番組の元スタッフが明かす舞台ウラ

『バイバイ・ラブ』を自主制作した理由

――ところで藤澤監督は、テレビの世界に入る前、東映東京撮影所に1969年に入所します。当時の東映は、例えば任侠映画の黄金期から徐々に路線が変わる過渡期でした。その後、東映を退所した1972年、独立プロ「レッドフィルム社」第1回作品として『バイバイ・ラブ』を自主制作しています。当時を振り返っていかがですか? 馬場:70年代の私たちは、将来のこと、夢のことで頭がいっぱいで、無我夢中。必死でした。 藤澤:『バイバイ・ラブ』を自主制作した理由があります。東映で僕は契約助監督でした。監督に昇格するには普通でも20年くらいかかる。そんなの冗談じゃないと思いました(笑)。それで撮影所にいても監督になれないとわかり、退所後をきっかけに同作を撮りることになります。 高倉健さん主演の『ごろつき』(1968年)やその他シリーズなど、東映ヤクザ映画も好きでしたが、僕はアメリカン・ニューシネマに影響されました。特にその代表作『俺たちに明日はない』(1967年)のような作品を作りたいと思ったんです。 主演のウォーレン・ベイティがほんとうにかっこよかった。追い詰められた主人公のふたりがめためたに撃たれるラスト、でもそれがなぜか幸せだなと思いました。僕は幸せな映画を作らない主義なので、『バイバイ・ラブ』ではシナリオを変えました。スタッフは平均25歳で、アマチュアリズムで初期のゴダールやトリュフォーのようにやろうと思っていました。 ――『Wの悲劇』(1984年)など、澤井信一郎監督作品にも参加しています。 藤澤:僕はチーフ助監督でした。澤井さんの細やかな演出を研究し、そのときの分析は、「製作ノート『Wの悲劇』」(『月刊イメージフォーラム』1985年1月号掲載)としてまとめています。 ――詳細に書かれいる製作ノートは、後の世代の監督にも影響を与えたと思います。 藤澤:あれは自分の教科書を作ろうと思って書いたものです。結果的に僕は澤井さんとは違う演出術ですが、僕だけでなく後の世代にも影響を与えているのなら何よりです。僕がずっと思っていることですが、一番大事なのはシナリオです。次は俳優さんと音楽と美術。監督を理解してくれるスタッフです。そして、演技のくさい芝居や熱演はやめてもらう。棒読みはとてもいいと思っています。

まさかあのふたりを撮ることになるとは思わなかった

『東京夫婦善哉』より (C)有限会社ビックリ・バン

『東京夫婦善哉』より (C)有限会社ビックリ・バン

――現在、順次公開されている『東京夫婦善哉』には、稔さんが『追跡』に出演した当時の番組映像が流れる場面があります。目をつむりながらパチンコをする稔さんが「欲を捨て、玉と一体になる…」と言った直後、大当たりを出していました。 馬場:あれは1988~1989年に放送されたパチンコ店の取材映像です。パチンコ業界が20兆円規模ですごかった時期。気功ブームともちょうど重なって、『追跡』で取り上げると、すごい視聴率でした。 稔さんには3回出演してもらいました。ご近所だったことからオファーしたんです。ご近所のつながりはやはり大事ですね。家の近所のパチンコ屋で撮影したのですが、そこで「太極拳やってくれる?」と聞くと、さすがに「それはやらない」と言われました(笑)。 ――ご近所から今回のドキュメンタリー作品に繋がるのは面白いですね。 馬場:まさかあのふたりを撮ることになるとは思いませんでした。いろいろな偶然が重なりました。私たちと同世代の方々にもっと観てもらいたいです。例えば、旦那さんがいて、星野夫妻のようなことをまだ知らない夫婦。もちろん、若い人にも観てもらいたいです。 <取材・文/加賀谷健>
加賀谷健
コラムニスト/アジア映画配給・宣伝プロデューサー/クラシック音楽監修 俳優の演技を独自視点で分析する“イケメン・サーチャー”として「イケメン研究」をテーマにコラムを多数執筆。 CMや映画のクラシック音楽監修、 ドラマ脚本のプロットライター他、2025年からアジア映画配給と宣伝プロデュース。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業 X:@1895cu
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【作品概要】
『東京夫婦善哉』
製作・配給:有限会社ビックリ・バン
配給協力:風狂映画舎
(C)有限会社ビックリ・バン
公式サイトはこちら
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