点滴を打ちながら走ったら青春映画みたいになった【こだま連載】
2週間ぶりに風を浴びた。湿った、懐かしいにおいがする。夏の夜のにおいだった。
「刑務所みたい」
私は鉄格子をがしがしと揺すって浮かれていた。
「私、大腸癌なんだって」
マユミさんが消えそうな声で言った。聞き違いであってほしかった。けれど、「やっぱり」とも思った。告げられるのをずっと待っていたような自分に気付いて、うんざりして、嫌悪して、何か言わなければと言葉を探したけれど何を言っても薄っぺらくなりそうで、うつむいた。花火と花火のあいだの沈黙に、じりじりした。
真下の土手で浴衣のカップルが肩を並べていた。
「いいなあ」
マユミさんが子どもみたいな声を上げた。喉の奥がぎゅっとなった。何か言いたい。言わないと。だけど、「大丈夫ですよ」なんて励ますのは違う気がして、「ここの方が眺めがいいよ」って、ぼそっと呟いた。やっと絞り出したのがその一言だった。
「そうだね」
マユミさんが笑ってくれたので、私は少しほっとした。
赤い光が降り注ぎ、点滴袋に反射した。どわんどわんと螺旋の渦が震える。この花火を忘れないようにしよう。目と耳と皮膚と骨、からだの全部で記憶した。
マユミさんは夏の終わりに亡くなった。
※当連載は、同人誌『なし水』に寄稿したエッセイ、並びにブログ本『塩で揉む』に収録した文章を加筆修正したものです。
<TEXT/こだま>
『夫のちんぽが入らない』 交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落"の半生。“衝撃の実話"が大幅加筆修正のうえ、完全版としてついに書籍化! |