進化したナチュラルメイクは、ただ単に薄いメイクというわけではないと女性誌にはしっかりと書いてあった。ナチュラルメイクほど、ベースメイクを整え、肌に透明感を出したり、また、目や唇などのポイントメイクも、いかにもなにもしていないように隠しラインを入れたりしないといけない。つまりテクニックが必要であることが書かれていた。
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ナチュラルメイクだけでない。女性たちは、いかにもこれが自然とばかりに、朝家を出るけれど、
“自然”な状態になるには、それなりの手間がかかっていることを知っている。現在の「自然」は、苦労を外に見せない状態と言い換えてもいいし、そこにはメイクと同じくテクニックが必要であるし、マニュアルが存在している気がしてしまう。
本来であれば、ナチュラル、自然は人それぞれ違うものであるはずなのに、社会はそれを規定している。会社であれば、薄い化粧、高すぎないヒール(つま先が開いていたり、バックがストラップではだめ)、黒を離れすぎない髪色…などというものを求めたりもする。近頃話題になった校則についても同じである。黒髪が自然と規定されているからこそ、元(ナチュラルな状態)が茶髪であろうがなんだろうが、黒染めを強要するのである。
個人差というものがなかったことにされている状態が、自然なわけがない。
ナチュラルを規定しているのは、なにも見かけだけじゃない。女性は笑顔でいるのが自然と思われているから、会社で嫌なことがあっても自然にかわさないといけない。この場合の自然は、嫌なことに気づいていないそぶりをしながら、それを笑顔でかわしたり、怒ったりしないようにすることで、
相手に自分の負の感情が見えないようにふるまうことだったりする。笑顔でいることや、怒らないことが自然とされていたからこそ、これまでのセクハラやパワハラが見過ごされてきたし、現在、それに対して声をあげたら、批判が集まるのも、なぜ今までのように自然に、笑顔でいてくれないのだという世間から女性に対しての憤りなのかもしれない。