私は、お尻を振り振りしながら尻尾を高くあげ、風の匂いを嗅ぎながら遊歩道を歩く
ケフィを見て喜んでいた自分を責めました。「元気で長生きしてもらおう」とやってきたことが、ケフィの体を痛めつけ、もしかしたらケフィの寿命を縮めてしまったかもしれないと思うと、
どれだけ後悔してもしきれない思いでした。

ぬいぐるみで遊ぶケフィ
そして獣医師の「負担が多いことはいけないが、運動はしたほうがいい」という言葉や「無理の無い範囲で」との注意に困惑しました。
いったいどの程度、どんなふうに運動すればケフィにとって無理ではないのか。関節に負担をかけずに筋力を鍛えるためにはどうしたらいいのか。どこまでが「いいこと」でどこからが「悪いこと」なのか。
何が正解で何が不正解なのか、見当もつきませんでした。
海に連れて行くと、ケフィは相変わらず喜んで海に入ります。しかし海からあがって「ブルブル」をしようとすると砂に足を取られて転ぶことが増えました。そのケフィを見ながら、これは「無理のない範囲」のことなのか、それとも「負担」なのか……。いくら考えても分かりませんでした。

ケフィは喜んで海に入っていたが…
海遊びをする楽しそうなケフィを見ることは、私にとって何よりの喜びだったはずなのに、それさえも辛く感じられ「もうこんなことを考え続けることは終わりにしたい」という思いが脳裏をよぎります。
そうすると、心の隅に追いやってきた「もう平均寿命も超えているのだから、衰えていくのは仕方ないことなのではないか」という考えがむくむくと頭をもたげてきました。
「もし、ケフィが口をきけたなら」
何度そう思ったことでしょう。体の痛みやしんどさ、体調や数日前との違いなどをケフィが教えてくれたならどんなにいいだろうか、といつもいつも考えました。「そうしたら少しだけでも正解に近づけるのに」と。

大好きな木附さんを見つめるケフィ
……だけどきっと、正解などというものはなかったのだろうと思います。どんな選択をしても100%良かったなんていうことはないし、逆にまったく間違っていたなんていうこともなかったでしょう。どんな選択にもリスクはあります。そして
どの道を選んでも、まったく後悔しないなんていうこともあり得ません。
それでも、そうやって日々、「宙ぶらりん」の状態に耐えること。手の下しようがない状況を受け入れ、答えのでない問いを日々続けること。楽観的な否認とあきらめの間で揺れ動きながら中途半端な
苦しさのなかに愛する動物とともに踏みとどまり続けること。
それが「やれるだけのことはやった」という思いに近づくための唯一の方法なのではないかと思います。
<TEXT/木附千晶>
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【木附千晶プロフィール】
臨床心理士。IFF CIAP相談室セラピスト。子どもの権利条約日本(CRC日本)『子どもの権利モニター』編集長。
少人数の「ペットロス」セミナーを開催しています(港区東麻布、カウンセリングルーム「IFF」相談室内)。次回は2018年4月14日(土)13時30分~16時45分です。