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内田春菊、義父からの性的虐待を“実母”の目線で小説に。「何考えてんだこの女って怒りながら(笑)」

―内田春菊さんインタビュー Vol.1―  漫画家で小説家の内田春菊さんが、自伝的長編小説『ファザーファッカー』(文藝春秋)を刊行したのは1993年のこと。幼少期から思春期に渡って過ごした家族の歪んだ関係性や、母親の魔の手によって16歳で義父(育ての父親)に差し出され、性的虐待を受けていたことなどを赤裸々に綴ったこの作品は世間を大いに騒がせました。現在アラフォー世代の女性なら、当時、同世代の主人公が経験した壮絶な現実に衝撃を受けた人も少なくないのではないでしょうか。
『ダンシング・マザー』(著:内田 春菊、出版社:文藝春秋)

『ダンシング・マザー』(著:内田 春菊、出版社:文藝春秋)

 あれから25年経った今月25日、当時の様子を母親目線で見つめなおした『ダンシング・マザー』(同)を発表しました。現在4子の母で、2人の娘を持つ内田さんは、当時の出来事をどう受け止めているのでしょうか? 執筆秘話とともに伺ったお話を3回に渡ってお届けします。

母は、家出した私が「死んでたらいいのに」と思っていた

――このたび『ダンシング・マザー』を書こうと思われたきっかけは? 内田春菊さん(以下、内田)「最初、今とは違う担当さんから、『何か毒親もので一冊』とのお話があったんです。それで書き始めたら母親を主人公にした小説になっていったので、お話をいただいたときからぼんやりと『母親目線』で書こうと思っていたんだと思います。ただ、その担当さんが行方不明になっちゃって(笑)。でも、現在の担当さんが受け継いでくださったので、無事にカタチになりました」 ――執筆するにあたり、お母さまに直接ヒアリングされたのでしょうか? 内田母とはもう32年くらい話していないですよ。昔母から聞いた話など、自分の記憶をつなぎ合わせて書きました。その当時『ん?』と思ったことって、覚えているものですよね。でも、本当のところはわからないから、間違っているかもしれないし、推測で書いているところもたくさんあります。もし母に聞いたら、『全然違う』っていうことが出てくる可能性はありますね(笑)」
内田春菊さん1

『ファザーファッカー』『ダンシング・マザー』の著者、内田春菊さん

――何十年経っても、つらい経験をさせた本人の気持ちになって書くというのは、かんたんなことではないと思います。 内田「16歳で家出して帰ってきたとき、母に『死んでると思って山に探しに行った』と言われたのですが、すごく後になってから『ああ、本当はあのとき死んでてほしかったんだな』って気づいて、くそって思ったし、すごくショックでした。だから最初はこの本も、もっと『娘が死ねばいいのに』っていう書き方で、読むのもかなりつらい話だったんです。『何考えてんだこの女』って思った私の気持ちが文章に滲(にじ)み出ていたんですね(笑)。  でも、今の担当さんが粘りに粘って、私の怒りを何度も何度も濾(こ)してくれて。中国茶って、雑味をとるために1回目に注したお湯を捨てるじゃないですか。あれと同じ作業をしてくれたので、私の怒りを帯びた部分を文章から消していくことができました」 ――なぜ母親に、「死んでほしいと思われていた」と感じたのですか? 内田「私がされたことについて外で言っちゃダメみたいなことは言われましたが、守ってないじゃないですか、私。しゃべりたくなるから、絶対言っちゃうでしょ、こういう風に(笑)。だから、薄々とはいえ、死んでいてほしかったわけです。とはいえ、当時の私の行動を思い返しても、母がどうして『死にに行った』と思ったのかわからなかったので、本作で繋げたのは私からのサービスです(笑)」

母は「成績優秀な私」や「稼いでくる私」が好きだった

――『ファザーファッカー』では母親の妹さんびいきが歴然でしたが、当時はお母様のことをどう感じていらっしゃいましたか? 内田「小さいときは、褒めてくれたし、何でもできる素敵なお母さんだと思っていました。でも、小学生のとき、育ての父が私のことを『褒めたらつけあがる』って言ってから褒めてくれなくなったんです。私はテストで100点を取るのが当たり前になっていき、一方で、妹は100点を取らなくても母から可愛がられていて。こんな風に、なんでだろう? って思うことが増えていったんです。  でもそれは育ての父に気を遣っているからで、母も被害者なんだ、アレ(育ての父)がいけないんだって、ずっと思っていました」
『ファザーファッカー』(著:内田 春菊、出版社:文藝春秋)

『ファザーファッカー』(著:内田 春菊、出版社:文藝春秋)

――内田さんの家出騒動があった後は、いかがでしたか? 内田「私が家出した翌年の17歳のときにね、育ての父が私にロボトミー手術(※)をすると言い出して、『これはヤバい』と感じた母が、私と妹を連れて、東京の駒込にある小さな旅館に逃げ込んだことがあったんです。結局は彼に見つかって連れ戻されちゃったけど、小さな部屋で3人で暮らしているときはすごく幸せでした。  私が大人になってからも、DVの夫から逃げるときに40万円ほど貸してくれたりしたから、ずっと母は味方だと思っていたんです。だから、家を出てからも収入の1割くらいを送金していたし、いつかこっちに呼んで一緒に住もうとも思っていました」 ※前頭葉白質を切断する外科的手術。1930年代に開発され、その後精神疾患の治療法として世界的に広まったが、感情や意欲を失うなどの後遺症が指摘され、日本では1975年に廃止が宣言されている。
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実母と32年間音信不通になっている理由
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