Entertainment

人は人しか愛せない、なんて嘘。――『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』について/最果タヒ

最果タヒ きみを愛ちゃん「きみを愛している。」  歌や映画や小説の中にあるその言葉が、現実より自分より、信じられることがある。厳密には、人は、愛のためにすべての人生を、燃やすことなどできないのかもしれない。けれど、愛を描くため生まれた作品たちに触れたならば、その向こう側にあるものを、一瞬、目にすることができるかもしれない。作品ごしに触れた、愛について。この連載では、書いていきたい。

人は人しか愛せない、なんて嘘。――『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』について

 作品を愛したい。作品に、誠実でありたい。どんな人からそれが生まれたのか、作品の向こう側にいる作者のことを知るためだけに、作品を消費したくはない。教科書で、小説の後に著者の顔とプロフィールが出てくることが嫌だった。好きな作品と、その作者が自殺したことだとかを関連づけてしか見られなくなったとき、自分がとても不純な生き物である気がして怖くなる。作品だけを見ていたい。作者のことを知るためだけに作品があるというならば、その人がそこに立っていること、それ以上のものを私たちは生み出せないということだ。そんな悲しいことがあっていいの。なにより私は、ただのクレジットとしてしか存在しない、作者という人のあり方がとても好きだ。  この世界、この社会には、人ばかりが存在している。ひととひととひととひとと、ひととかかわりあうことで、心を動かし、ひととかかわりあうことで、傷ついている。作品に心を動かされるとき、私はそうした世界のレイヤーから抜け出て、別の階層で息をしてしまえた気がしている。そこには誰もいない。作者その人すらいない。私はひとりで、でも何も失っていない。何もかもが豊かなままで私は一人、泣いたり笑えたりするということ。この時間を愛している。尊敬している。  それでもひとはひとだから、ひとの姿を探してしまう。作品にふれた誰かが、作者のことをつい、考えてしまうなら、それはきっと本能的な反応だ、不純でもなんでもないと私はどこかでわかっている。ひとばかりの中に生きて、ひとばかりを捉えてきた瞳が簡単に、そのことを忘れられるわけもない。私はただ、それでも作品そのものに無限があると、信じているだけだ。それだけでも無限へと連れていけると信じている。だから私の作品に、自分の気配が現れないよう、覆面で活動している。でもそれが完全な解答だとは思わない。私の作風だからこそ、できている部分もあるだろう。作家の生活や人生から生まれた言葉は、作品として独立しながらも、それでも、読む人を自分の日々に呼び込んでしまうこともある。 「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」は、穂村弘さんの短歌を軸にした、劇団「マームとジプシー」、穂村弘さん、名久井直子さんによる共作演劇だ。穂村さん、名久井さんへのインタビュー、穂村さんによる新作短歌、テキスト、多様な要素で構成されている。  私は、穂村さんの作品には、短歌と短歌以外で、どこか隔たりがあると感じていた。それは短歌という57577の定型も関わっているのかもしれない。穂村さんは面白いエッセイをたくさん書いていて、だから穂村さんの価値観を通して、穂村さんの日々をいくらでもみつめていける感覚がある。ただ、穂村さんの価値観は「私もそう思う」と思わせる領域から少しはみ出ていて、共感だとか理解だとかそういうものに頼ったおもしろさではないとも思う。ずれた部分がほとんどブレず、そこに他人として思考を乗せることが心地よく、おもしろい。どれだけ読んでも、わかるとかおもしろいとか思っても、わたしは決して穂村さんにはならないし、そうして穂村さんという人間をよく知っているとも思えない、という、その「生の穂村さんを知っているつもり」には簡単にはさせてくれない手強さ。これが、穂村さんのエッセイの、すばらしさの根っこだろう。  そしてだから、エッセイを通じて見る「穂村さん」はどこかフィクション的だ。手強さを面白がるたび、「ほむほむ」というあだ名がぴったりのキャラクターのように感じてしまう。でも、短歌は。穂村さんの短歌は、生身に思う、けれどこちらは全貌が見えない、わからない、だから、生身だけど誰の生身か、わからないのだ。  定型は私にとって、窓枠のようなものだと昔、書いたことがある。世界と私の間にある壁に、窓を取り付け、向こうを見せる。限界を作るようでいて、無限を作るのが短歌だろう。無限はある。でもあくまで、読む私はそれを「覗き込む」しかない。見渡すことはできないというそのことが、むしろ無限の存在を証明する。わからなさこそが、一瞬を通じて見る「人生」のリアルを証明しているんだ。  定型の終わりは、単なるエッセイの終わりよりもずっと、作品を「完結」させるのかもしれないな。作者の意図ではなく、定型としての終わりだから、読み手からは絶対的にみえるのかもしれず。そこから、何を想像するか、何を読み取るかはこちらに一任され、でもこの31文字以上のヒントはやらないというはっきりした拒絶を感じる。短歌にみえる「無限」は、読み手としての自分の無限でもある。自分の想像力の可能性、それを、歌に無限だと信じてもらえることでもある。まるで自分の中に、誰かの人生が丸ごと訪れたようだ。手にしたようだ。でもだからこそ、相手のすべてを知ることなどできないということもよくわかる。誰かのたしかな人生のかけらを渡された、でも、それが誰なのかわからない。短歌は短歌として輝き、私が、意識しなくても、定型は、作品と作者を、だまってさっくり分断してしまう。  けれど短歌が「穂村弘の短歌だ」と紹介されたとき、わたしはその「誰かわからない短歌」が「穂村さんの短歌」になるような気がした。この「穂村さん」は、実際に生きている穂村さんではなくて、エッセイによって私の中に生まれたキャラクターとしての「穂村さん」「ほむほむ」であるのだろう。それは、仕方のないことだ、穂村さんの作品が好きでたくさん読むのだから、こうなることは仕方がない、けれど、でもそれは違う、そうではない形で作品を読みたいと、やっぱりどうしても思ってしまう。読み手としての自分の誠実さが、足りない気がしてならなかった。  そうした矛盾をすべて、一度解体してしまう演劇だった。「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」。穂村さんを、「エッセイの穂村さん」ではなく、ただの人としての穂村弘に、そして、「穂村さんの短歌」をただの「誰かの短歌」に戻していく。そんな作品だった。穂村さんの周囲にいる人々の言葉があり、穂村さんの言葉があり、短歌があり、それらが劇を通して生々しくなっていく、穂村弘という人に、詳しく、詳しくなっていき、けれどそれは決して「穂村弘を知ること」に繋がらない。親しい人ほど、その人がどういう人か他人に説明できないことがある、よく話をする人ほど、得体の知れない部分をたくさん持っているような気がする。そんな生々しい「わからなさ」を穂村弘という人間に対し、抱きはじめる。キャラクターとして面白さに昇華されていた人物が、複雑で、簡単な消費など決して貫かせてくれない人間となり、絶対的な「他人」となる。そうだ、他人だ。すこし親しくなったり、本を読んでその人を知ったつもりになると、なぜか近しく感じるけれど、この人はただの他人。あたりまえのことじゃないか、他人には決して、近づけないし、わからない。そのことを、知り尽くすことで思い知らせてくれる。  作品には、様々な人の声や、穂村さんの言葉が入れ込まれ、けれど、決してそれらは融合せず、ひとつのものにはなろうとしない。ひとつの「穂村弘」像を作るために、まとまろうとも、同じ方向を向こうともしない。けれど、それこそが自然なことだ、その人が書いたもの、周りの人が言う言葉、短歌、歴史、すべてがまとまるわけもない。日によって、場所によって、体調によって、天気によって、人は、言うことが変わる、思うことも変わる。一度だって固定はされない、人は変わり続け、同時に様々な役割を担い、そうしていろんな景色を見つめている。けれど、それでもつながる、遠くでも近くでも、わずかには、つながる。その人が、一人の人間であるという事実が、ばらばらの言葉やイメージを、ばらばらのまま、離れきったまま、それでも、ただ見失うことだけはないよう、わずかに、つなげ続けている。それが人間というもののおもしろさなのだろう。それぞれが完結し、独立していたような短歌は、穂村さんという人、人生そのものにくみこまれ、それでも、「穂村弘」そのものに溶け込むことはなかった。人生の中で、まだ孤島のように存在していたんだ。  こんなこと、作家がひとり、自分の言葉で物を書くだけでは不可能なことだ。自分の言葉である限り、こんなふうに微かにつなげることは難しい。演じる者、高度な演技、舞台という場所、観客という存在、それらのある「演劇」だからこそ起こりえる、短歌への、最上の愛情であると思う。  作品を愛したい。作品を、誠実に愛したい。作家と作品をどう切り離せばいいのか、切り離すことは可能なのか、そんな問いへの答えのような作品だ。私はどこかで、努力しなくてはそれらは切り離せないのだと思い込んで、「誠実に」と自らを追い詰めていくしかできなかった。けれど切り離せないはずという思い込みこそが違っていて、作者と作品は、人生という一つのレイヤーに存在してはいるけれど、でもまったく別の座標で自転している。作者と作品は、人生という一つのレイヤーに存在してはいるけれど、でも全く別の座標で自転している。私たちはそのことを、知らなかっただけじゃないのか。  ひとの一瞬一瞬が、思考が、感性が、視界が、聴覚が、すべてばらばらに自転をしている。誰かを、知るなんてことは不可能だと、知れば知るほど思い知る。だからこそ見せてくれた一瞬が愛おしくて、その一瞬で、ひとを愛せる。本当はどんな人であるかなんて、そんな「無限」を飛び越えて、その一瞬を、信じてしまえる。だからこそ、ひとは、ひとを愛せる。そうして、作品を愛することができてしまう。ひとのすべてから、逃れるように。 きみを愛ちゃん5●『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』 穂村弘×マームとジプシー×名久井直子
『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜

「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』初演より

<文/最果タヒ イラスト/とんぼせんせい>
Cxense Recommend widget
あなたにおすすめ