人口512人の村に移住した47歳女性。「スーパーもコンビニもない山村」に6年住んでわかった“自身の変化”
東京都と山梨県の境にある「丹波山村」という村の名前を聞いたことがあるでしょうか。日本百名山である雲取山や大菩薩嶺の山々に四方を囲まれ、東京・多摩川の源流である丹波川が中心部に流れる、緑豊かな山村地域です。
最寄り駅であるJR奥多摩駅へは、バスを使って約1時間。人口は512人(令和6年6月1日時点)、町内にはスーパーもコンビニもありませんが、その自然環境に魅せられて、週末ともなればキャンパーやバイクライダーなどがひっきりなしに村を訪れます。
近年では若者の移住も増加しており、『田舎暮らしの本』(宝島社)が発行する「2024年度版 住みたい田舎ベストランキング」では、「村」カテゴリーで総合部門1位となりました。
そんな丹波山村に単身で移住し、食堂を立ち上げた一人の女性がいます。名前は、坂本裕子さん(47歳)。元々、神奈川県内の一般企業で翻訳関連の仕事に従事していた坂本さんは、一体なぜ村に移り住むことになったのでしょうか。
2024年のゴールデンウィーク最終日。村中心にある役場から5分ほど歩いた場所にある食堂「オオカミ印の里山ごはん」店内は、村内外から訪れる多くの客で賑わっていました。
この日提供していたのは「生姜焼き定食」「唐揚げ定食」などの定食数種類と週替わりのカレー、村で獲れたジビエを活用した「タバラーメン」など。いずれのメニューにも、村で獲れた旬の食材が活用されています。
キッチンで1人忙しく包丁を刻みながらも、客と談笑するのが店主の坂本さんです。2018年、神奈川県厚木市から丹波山村へ移住し、3年間「地域おこし協力隊」として活動したのち、2022年に店をオープンしました。
坂本さんが生まれ育ったのは厚木市内の上荻野地域。丹波山村同様、辺りを森林に囲まれた自然豊かな地区です。のどかな場所で生まれ育ったため田舎への憧れはなかったものの、「自分のお店を持ちたい」という願望は小さな頃から持っていたと坂本さんは話します。
坂本:「元々おばあちゃんが駄菓子屋さんをやっていたり、幼稚園時代に先生が紙で作ったハンバーガーをお客さんに振舞うという遊びがあって、すごく楽しかったんです。それで『お店屋さんをやりたい』という気持ちはずっとあったんですが、『自分にはできるわけがない、夢は夢だ』と思っていました」
小さな頃から目標を持ち、そこに向かって突き進む行動力を持っていた坂本さん。短期大学卒業後は、ワーキングホリデーのため、カナダへと渡ります。
坂本:「短大を出た2000年当時は、俗に言う就職氷河期だったんです。周囲の同級生が就活を頑張っている中、自分は『就職はしない』と決め、バイトに精を出していました。人とは違う道を常に選んでしまう、あまのじゃくな性格なんでしょうね」
最終的には就労ビザが習得できず、29歳で帰国。その後は、厚木市内の民間企業で電子計測器などのマニュアル翻訳に派遣社員として約11年関わりました。2008年、「リーマンショック」による世界同時不況が発生、その余波で社内では派遣社員が契約を切られる「派遣切り」が起こりますが、「坂本さんは残して」という声が一部であったほど、社内でも慕われる存在だったそうです。
社会人として順調な日々を過ごしていた坂本さんでしたが、転機となったのは自身の離婚でした。38歳の時、長年友人だった男性と結婚。しかし、入籍前後から夫の態度は急変していきました。
坂本:「入籍前後のタイミングで、1回すごく怒鳴られた時があったんです。その時は『機嫌悪いのかな』と思ったんですが、その後もことあるごとに怒鳴られて。自分の所有物が思うように動かないのが気に入らない、という感覚だったんだと思います」
謝ると以前も同じことを言っていたと詰められ、謝らなければ態度が変わるまで叱咤を受ける――そのような日々を繰り返す中、坂本さんの精神状態は次第に悪化していきました。一方、事情を知らない友人からは「いい旦那さん」と声をかけられることもあり、周囲には自身の状況を伝えられずにいたといいます。
ある時、思い切って妹に状況を打ち明けてみたところ、話はすぐに両親へと伝わり「今すぐ離婚して帰ってこい」と猛説得を受けます。友人宅に居候しながら別居生活を続け、結婚から1年足らずで離婚。別れた後も元夫の顔や、夫に責められた言葉が頭にちらつき、「自分の存在が人に迷惑をかけている」という思いから、ストレス性の目まいに悩まされる日々が続いたとのことでした。
自分の店を持つのが夢だった
元夫の言葉に苦しんだ日々
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