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ある夜、宇多田ヒカル「真夏の通り雨」を聞いた

「今日私は一人じゃないし それなりに幸せで これでいいんだと言い聞かせてるけど」  これは、宇多田ヒカルさんが書いた「真夏の通り雨」という曲の一節だ。私は今までに何度もこの曲を聞いてきたし、口ずさんできた。  だけど当時まだ若かった私は、この歌詞の意味を噛み砕けてはいなかった。なんとなく物悲しい曲、失恋の曲、別れの曲。そんな風にとらえていたのだ。  だけど昨日、深夜お酒を飲みながら一人でこの曲のMVを再生したとき、私はまるで、この曲を自分の曲のように感じ、そして今までの解釈とはまったく違う解釈でこの曲を捉えている自分に気が付いた。

過去の記憶がふっと蘇る“あの感覚”

空想「MTV VMAJ 2016」で、全ノミネート85作品の中から最優秀ビデオ賞をとったこの曲のMVは、柘植泰人監督の作品で、さまざまな映像が断片的に曲に合わせて刹那に移り変わるというものだった。その映像はどれも、おそらく互いに関係のない人や状況のものであり、一見、ただ曲に合わせて美しい情景を切り貼りしただけのようにすら見える。  だけど昨日、私の心を通して見えたそれは、確かに「記憶の走馬灯」だった。知らない誰かの映像なのに、自分の記憶を駆け巡っていくそれを映像として見たように思えたのだ。  誰にだって体験したことがあるのではないかと思う。なんとなく、特別ですらないかもしれない過去の記憶が、突然ばっと押し寄せるあの感覚。  商店街のタイル、知らない誰かの夕飯のにおいの漂う夕方、まぬけな音のチャイム。  誰もいない昼間の電車の窓にうつった自分の顔、知らない植物、小学校から聞こえるトランペットの音。  拓植監督は、この曲を聴いてこのMVを制作した経緯について、こう話す。 「何の前触れもなく過去の記憶がふっと蘇って心を持っていかれるさまをなんて言うんだろう。今回の楽曲を聞いてそんなことを思いました。断片的なイメージの中に、観る人それぞれの記憶が想起されるような映像を目指しました」(リリースより)
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29歳。自分も友達も“地に足をつけて”
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