怖い。老いていくのが。そして思う。私はこのまま何もせずに死んでいくのか?だらりと続く連続再生の中に身を置いて、テープがまわらなくなるのを、ただただ、待っているつもりなの?
そんな時に思い出すのは「選ばなかった道」だ。年齢を重ねるごとに自ずと、選ばなかった道が増えてくる。それはときどき、明確に正解だった場合もあるけれど、ほとんどが微妙なラインで、どっちが正解だったのかなんて、はっきりしない。
だけど事実、私たちは自分が選んだ道の延長線上に生きていて、それはもう、変えられることができない。
だけど老いを感じるごとに、自尊心が削がれていく感覚に陥るたびに、選ばなかった道に恋い焦がれてしまう。
私の人生は、こっちで良かったのだろうか? いや、こっちで良いはずだ。だって目の前には大切な日常があって、私自身の選択を後悔してしまったら、目の前の存在まで否定することになってしまう。
焦る必要なんてないのだ。ただのないものねだりだ。だって目の前には幸せがあって、なんの苦労もなく生きていられるのだから。そうやって誰にも言わず、誰にも言えず、そして、考えることを辞めた。だけどいつも、ふとした瞬間に、あの記憶の波がやってくるのだ。
そんな時に、「真夏の通り雨」を聴いた。この曲は、まさに私たちの世代へ向けた曲ではないのだろうか。私たちは毎日、平凡で変わらない愛おしい生活を送りながら、だけどどこかで「あの日」への未練を断ち切れずに生きている。
ふとした瞬間、幸せな瞬間にこそ押し寄せる「あの日」の記憶がいつまでも、何年たっても胸を締め付けて、選ばなかった道の向こう側にある自分を思い起こしては、静かに嫉妬する。
確かに幸せで、かけがえのない、今さら捨てられない今がある。だからこそ切なくて、苦しくて、戻りたいわけでもなくて。だけどただ美しくて脆い情熱的なその記憶に、心を持っていかれるのだ。
羨ましい。あのとき情緒に身を任せていたら、私の心はまだ、燃えたぎっていたのだろうか。
選ばなかった道への未練を断ち切るのは、きっと不可能なのかもしれないと思う。私たちは年老いて、死に向かえばむかうほど、そういう未練を胸のなかに溜め込んで、切なさと戦いながら生きていくのかもしれない。
じゃあ、どうすれば良いのだろうと考える。解決策がない悩みにしては、少し存在感が大きすぎる気がする。だから私は「どうしよう」と考えることを辞めることにした。だって、どうしようもないのだから。
選択は、変えられない。死に向かって老いていくことからは、離脱できない。だから、受け止める。自分の選択、そのどれもが奇跡の産物で、そのどれもが正解で、そしてそのどれもが美しいものだったのだと、改めて自分の中で認めてあげるのだ。
変えられないことは、愛して受け止める以外にない。私たちは蓄積された選択の中で生きていくことを理解して、記憶の一瞬一瞬を、抱きしめることが、この漠然とした不安からの脱出方法なのかもしれない、と思う。
そしてこれから先、少しでも引きずるものを減らすため、ひとつひとつの分かれ道で、もっと情熱に任せて選択することも、大切なのかもしれない、なんて、そんなことも思った。
大丈夫。人生は、まだ続いていく。質問者の方や、私と同じように悩んでいる人がいたら、「真夏の通り雨」素敵なMVだから、ぜひ見てほしい。
<文/yuzuka>
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