ある夜のこと。谷口さんが寝ていると、深夜に気配で目が覚めた。部屋を見回すと、なぜか明子さんがいる。「何してるの?」と聞いたが、説明がいまいち要領を得ない。後日、明子さんの目的が明らかになる。
「当時、僕は相当悩んでいて、カウンセリング通いと並行して、ある霊媒師のもとにも定期的に行っていました。いま思えばかなり怪しいんですが、それほど精神的に追い詰められていたということです。その霊媒師が僕に言いました。
『先日、あなたの奥さんが来て、あなたがどんな相談で来ているかを聞かれました』と」
谷口さんは仰天した。おそらく、カバンに入れてあった霊媒師のパンフレットを見たのだろう。ということは、明子さんは谷口さんのカバンを勝手に漁っていたということになる。
「それでハッと気づきました。深夜に明子の気配で目が覚めたとき、彼女の手の先にあったのは、僕の携帯電話だったことを。明子は、僕にも自分と同じような不貞がないかどうか、探ろうとしていたんです」
なぜ、そんなことを?
「僕にも落ち度があれば、自分の浮気を帳消しにできる。喧嘩両成敗に持っていこうとしたんでしょう。
その瞬間、僕の明子への信頼はゼロになりました。明子は僕との結婚生活を修復することより、自分の保身を優先したんですから」

谷口さんは、ここでようやく離婚を決意した。
「それまでの僕は、どこか希望を持っていました。どうにかセックスレスが解消されれば、いつか子供を持つことができると。子育てという共通の目的にふたりで取り組めば、いつか夫婦関係は修復できると。
だけど、その時はっきり思ったんです。こんな人に、子供を育ててほしくないなって」
谷口さんは離婚の意思を明子さんに伝えるが、応じてくれない。浮気も依然として認めない。家庭内別居がはじまった。
「朝6時前に自宅を出たら、夜12時を過ぎるまで帰宅しないと決めました。ただ、そんなに長時間会社にはいられません。朝は7時から開いている会社近くのジムに行き、早く会社を出た日は、自宅最寄り駅前のマクドナルドで12時過ぎまで時間をつぶす。マンションの間取りの構造上、明子も使うリビングを通らないと風呂に行けないので、朝にジムのシャワーを浴びてから出社する毎日でした」
約1年間、このような状態が続いたところで、谷口さんの海外転勤が決まってしまう。明子さんとの関係が修復されないまま、東南アジアの某国に赴く谷口さん。すると、数カ月後に明子さんが動き出した。
「婚費を請求してきました」
婚費(こんぴ)、すなわち婚姻費用とは、夫婦が別居した際に、収入の高い一方(義務者)が収入の低い一方(権利者)に対して、足りない生活費を補填するものだ。この場合、義務者が谷口さん、権利者が明子さんとなる。要は、一緒に暮らしていた時には明子さんが負担しなくてもよかった費用が、別居したことで発生したために、請求してきたというわけだ。

婚費の額は「夫の年収」「妻の年収」「子供の年齢」「子供の人数」によって自動的に決まる。算定表を見れば一目瞭然だ。
「明子は家庭内別居中、異動してきた上司とそりが合わず会社を辞めており、彼女の友人が起業したITベンチャーでPR担当として雇われていましたが、収入は激減していました」
つまり、当時は谷口さんのほうが圧倒的に収入が多かったので、明子さんに婚費を支払う義務が発生したのだ。しかし、谷口さんは納得がいかなかった。
「毎月のマンションのローンは100%僕が払っていました。つまり、明子は住居費を1円も負担していない。なのに、婚費からローン分は差し引かれないんです」
賃貸物件の家賃は支出なので婚費からの差し引きが認められるが、ローンの支払いは支出ではなく「夫婦の共有財産の積み上げ」、つまり資産形成なので、差し引かれない。
毎月のローン支出に加え、莫大な婚費の支払い義務も課せられた谷口さん。しかも、明子さんはもともと谷口さんとふたりで住んでいたマンションに住み続けていたので、引き続き住居費は1円も発生しない。
「
明子が離婚に応じず、婚費請求だけしてきたのは、カネがもらえるからですよ。離婚裁判になって自分の浮気が暴かれれば、僕に慰謝料を支払う必要がある。いずれそうなるにせよ、その前に婚費で稼いでおけば、金銭的ダメージは相殺できますからね。本当に、やり方が汚い」