古くから日本では葬儀に白を着るのが主流だったが、西洋化の流れで黒を身に着けるようになったのがここ百年ぐらいの話だそうだ。それにしたって、西洋の映画やドラマに出てくる葬儀の参列者たちはみなすこぶるファッショナブルではないか。なんなんだろう、この謎のローカライズは。

しかし、義父の葬儀で見かけた女性たちは、だれが考えたのだかもわからない謎マナーを軽やかに無視して、それぞれがそれぞれに快適で、自分にとって心地よいファッションを楽しんでいるように見えた。ただしそれらはみな年配の女性ばかりで、年齢の若い人ほどマナー違反を恐れてか、頭からつま先までマナーを順守したア○キの広告のような葬儀ファッションをしていた。
気持ちはわからなくもない。「大人なんだからちゃんとしなくては」という呪いから完全に自由になるには、勇気と経験と年月が必要だ。社会のルールなど無視して好き勝手に生きてきたような私でさえ、どういうわけだか、「これからはちゃんとした礼服を持っていないと」と結婚してすぐに通販で安物の礼服を一式そろえたぐらいである。なにかの折に「嫁」としてジャッジされることを念頭に置いていたのだろう。そんなのクソくらえってかんじだけど、普段は威勢のいいことばかり言っていても、さすがに夫の親族に面と向かってそんなことを言うだけの度胸はないこの私a.k.a.インサイド弁慶である。ジャッジから逃れられないのであれば、せめてなにか言われぬよう完璧を期すまで——などと考えていたふしがある。う一ん、自分でもまぶしいほどの若さだ。あと、すげえマッチョ。要するに「なめんじゃねえよ」ってことだもんな。防御の体裁をとってはいてもめっちゃ攻撃的。
最初のうちはそんなふうに肩肘を張っていた「嫁」のみなさんも、年を取るにつれてだんだんとすれていったのだろうか。あるいは彼女たちをジャッジする上の世代はすでに鬼籍(きせき)に入ったのかもしれない。彼女たちのフリーダムな葬儀ファッションは目に楽しかった。
ちなみにだけど、私は通夜に数珠を忘れていった。葬儀用バッグのあまりの野暮ったさにぞっとし、ぴかぴかと光沢のある黒い革のバッグを持っていくことにした。着られなくなった礼服は妹(ま)にあげることにして、次までにそれっぽいモード系ブランドでパンツのセットアップでも買おうかと考えているところだ。
年を経るごとに「完璧」から逸脱し、どんどんルーズになっていくというのは、若いころに思い描いていた成熟からは程遠いけれど、それはそれで悪くないんじゃないだろうか。
と、そんなことを思っていたら、本来なら私をジャッジする側であるはずの義母が、通夜がはじまる前にこそこそと相談を持ちかけてきた。
「私が真珠のネックレスとかイヤリングとかしてたらおかしいと思う?」
「えっ、真珠はいいんじゃないの? だってみんなしてるし……」
「お客さんはいいんだよ。そうじゃなくて、お客さんを迎える側の私がそんな着飾ってええかしらんと思って。でもお父さんを見送るんだし、多少はなにかしらつけといたほうが……」
ああでもないこうでもないと不安そうに言いつのる義母の手には、すでに結婚指輪とは別にひときわ大きな真珠の指輪が嵌(は)まっていたが、それにはツッコまず、「せっかくだからつけといたら?」と答えておいた。

喪主を務めた義兄をはじめとし、義母も夫も義弟たちも、自分たちで葬儀を仕切るのは今回がはじめてだった。右も左もわからないことだらけで、一事が万事てんやわんやしていた。
弔問客の中には、「スマホで調べたら、御霊前だの御仏前だの初七日だのいろいろあってわけわからんのだわ。宗派によってもいろいろあるみたいだしさあ」などと言いながらおもむろに不祝儀袋を取り出し、香典を包み出す人もいた。香典は式場に入る前に包んでおくものだとスマホは教えてくれなかったのだろうか。義父母ともに愛知県の三河地方出身ということもあり、さらにはそこへ「おさびし見舞い」なる風習も加わり、もはやなにがなんだかわけがわからない。通夜がはじまる直前にも席次がどうしたとかでひと悶着あり、事前に説明を受けていたにもかかわらず、焼香の際にお辞儀する順序もぐだぐだで、しっちゃかめっちゃかな葬儀となってしまった。
式が終わってから、
「いいのかなあ、こんなゆるいかんじで」
と義兄はぼやいていたが、その数秒後には、まあいっか、と笑っていた。
みんながみんな、冠婚葬祭のマナーなどぼんやりとあやふやなまま年を重ねているのだな、と微笑ましくなったが、はて、ならば私たちはこんなにまで必死こいてなにを守ろうとしているのだろう。あなたも私もマナー弱者、審判者などどこにも存在しないのに勝手に仮想敵を作り出し、みんなスマホとにらめっこして体裁をととのえ、すました顔で「ちゃんとした大人」のふりをしている。これじゃまるで人狼ゲームだ。マナーは死者の弔いのためだという考え方もあるだろうが、義父はそういうことにはまったく無頓着な人だったので、地上の人間たちがくだらぬことで大騒ぎしているのを呆れて見下ろしていたかもしれない。