田中圭の「もう少しで泣き出してしまいそう」な演技がスゴい。実写版『耳をすませば』を読み解く
アニメ版とちょうど逆転した役割
田中圭演じる作家は、この映画単体での物語上はもちろん、『耳をすませば』という作品に通底する精神性を相対的に際立たせるという意味でも、重要な役割を果たしている。
何しろ、アニメ版において中学生の雫は小説を書き上げ、それを読んだ聖司のおじいさんから「切り出したばかりの原石を、しっかり見せてもらいました」などといった、正直でありつつも、これからの「可能性」も肯定するような、素敵な言葉をかけられていた。
そんな雫が、今回の実写映画では、作品の正直な感想を求められるようになるという、ちょうどアニメ版のおじいさんと逆転した立場になる、というわけだ。
さらに、アニメ版のおじいさんは「時間をかけてしっかり(作家としての力を)磨いて下さい」などととも言ってくれていたのだが、この実写映画版での雫はそれから10年という時間をかけても、作家としてまったく芽が出ないという現実に直面しているのだ。
大人になって変わってしまった夢への向き合い方
つまり、田中圭演じる作家は、大人になった雫にとっての「あの頃の自分とは逆の立場」であり、同時に「10年をかけてもなれなかった(なりたかった)人物」とも言える。
アニメ版では中学生という年齢だからこその夢への憧れ、そして時間がたくさんあるからこその希望も示してくれたが、今回の雫と作家との掛け合いは、それから長い時間が経過し「大人になって変わってしまった夢への向き合い方」を相対的に、残酷なまでに示しているというわけだ。
もちろん、その残酷さを示したまま物語が終わるわけではない。詳しくはネタバレになるので控えておくが、そこには『耳をすませば』という作品に通底する、そして普遍的な「(大人になってからの)夢」についての、万人に響く尊いメッセージがあったのだから。
それでいて、決定的な断絶を生んだ編集者と作家の関係について、安易な解決方法に頼ることなく、社会人としての真っ当な姿勢を示してくれたことも、とても誠実だった。とある「やりすぎ」な行動をしてしまう清野菜名演じる雫に対しての田中圭の対応も、アニメ版の雫のキャラクター性と、田中圭というその人のイメージも活かした、生真面目で尊いものとして映った。
この田中圭のエピソードを筆頭に、実写映画版『耳をすませば』は、原作(漫画およびアニメ版)のエッセンスを十分に汲み取りつつ、そちらを相対化した作劇がうまくできている、優秀な作品であったと思う。『耳をすませば』のファンはもちろん、大人になってから夢とどう向き合えばわからなくなったという人も、ぜひ映画館で見届けてほしい。
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ヒナタカ
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF
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