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かつて映画監督は「女になれない職業」だった。74歳、女性監督の足跡と信念

「当時、映画会社に就職できるのは大卒男子だけ。高卒女子なんて論外なわけ。女になれない職業があってたまるかと思ったわね」 誰に相談しても、女が監督? と相手にもされなかった。こうなったら当時“大手五社”といわれていたメジャーな映画会社以外の映画制作会社を探すしかない。あるときたまたま観た映画のクレジットに目が釘付けになった。「制作・若松プロダクション」「監督・若松孝二」の表示があったからだ。

助監督デビュー初日に起きた珍事

電話帳で住所を調べ、若松プロを訪ねた。当時、若松孝二といえばピンク映画界の風雲児として人気があった。のちに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』や寺島しのぶ主演『キャタピラー』などで国内外のさまざまな映画賞を受賞した監督でもある。 その若松氏に「女の助監督なんていらない」とけんもほろろに断られた。それでも彼女は若松プロの近くに引っ越し、無視されてもかまわず通い続け、勝手に掃除したり宴会のための料理を作ったりした。そして3ヶ月ほどたったころ、ようやく助監督見習いとして扱ってもらえるようになった。 その後、助監督となったものの現場についた初日の夜、主演女優と俳優が隣の布団でリアルなプライベートセックスを始めてしまう。 眠らなければ翌日の仕事に差し支えるからやめてほしいと頼んだがやめてくれない。浜野さんは布団を引きずって廊下の隅で眠ったが、翌日、「サード助監督ごときが役者に意見をした」と大問題となった。怒られるだけならまだしも、謝罪しろと言われても納得できなかった。 納得できないことはしないのが浜野さんの生き方。勢い余ってそのまま若松プロを辞めてしまった。

24歳で監督デビュー、37歳で制作会社設立

「それからはフリーの助監督として活動しました。今思えば、いろいろなことがあったけど、当時はこの苦労は自分のため、自分の映画のためと割り切って考えていたような気がする。先は見えなかったし、博打みたいな人生だとも思ったけど、それを選んだのは自分だから、自分で自分を認めるしかないわけですよ」 浜野佐知インタビュー202301-1b全力でまっすぐに自分の道を努力しながら歩いていれば、道は開けていくものかもしれない。あるとき彼女は初日にばっくれた監督の代理として映画を作りあげ、その半年後についに初監督作品を撮ることができた。 1972年『十七才すきすき族』、24歳と若く、ピンク映画界から這い上がってきた女性監督が誕生したのだ。 37歳のときには自身の制作会社「旦々舎」も立ち上げた。自身がプロデューサーとなれば、好きなように映画を撮ることができる。 浜野さんは今でも、「あなたにとって映画とは」と聞かれたとき、「職業です」と淡々と語る。聞いたほうは映画へのロマンややりがいを尋ねたいのかもしれないが、彼女はあくまでも「プロの映画監督であることが職業」と断言する。おそらく「職業」への思い入れが、聞いている側と語る側において違うのだ。
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男性が観るピンク映画で、女の性を描きたい
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