朴訥な青年にも魔性の少年にも見える宮沢氷魚にしかできない役柄

「オカマ」といじめられ、中学で母を亡くした浩輔は、その憎むべき地獄のような田舎を捨てて東京でファッションエディターとして華やかに暮らしている。プライドとブランドで自分を強固に護り上げた浩輔は現在ゲイを隠すこともなく友人にも恵まれ、自由を謳歌しているように見える。ただ、自由であるということは、孤独であるということとイコールだ。
そんなある日、彼はゲイの友人つながりでパーソナルトレイナーの龍太に出会い、お互いに心惹かれていく。立場も個性も趣味も真反対に近いほど大きく違う二人だが、たったひとりの肉親である母親を支え続ける龍太に、浩輔は幼いころ母親を失った自分を投影する。亡き母への想いを取り戻すように二人をサポートする浩輔だが、思いがけない運命が待ち構えていた。

本作はほとんど鈴木亮平劇場といっていいほど彼の存在感は大きい。しかし、龍太を演じる宮沢氷魚が負けていない。
完璧に作りこまれた鈴木亮平の浩輔に対して、宮沢氷魚の龍太はあくまで自然で素朴、しかしながら同時に無自覚な妖しさと儚い色気も感じさせる。天使と悪魔が同時に存在していると言っては陳腐だが、これは、撮る角度によって朴訥(ぼくとつ)な青年にも魔性の少年にも見える宮沢氷魚にしかできない役柄かもしれない。
例えば最初に一緒にお茶をしたときに小銭をばらまいて頭をぶつけて結局浩輔に払わせる彼のドジっ子ぶりに、私は思わず
「気を付けて浩輔! きっとこの子、おリツ(お金目的のパパ活ボーイを揶揄する昭和のゲイ用語。誰も知らなくていい)よ!」
と老婆心から叫んでしまったくらいだ(その私の勘は半分当たることになる)。
実際、私は途中まで、本当に浩輔のことが好きなのか? という基本のところで、龍太の気持ちがわからなかった。彼の一見ピュアな微笑は、本当なのだろうか、打算的なものなのだろうか。つい自分の過去の恋愛を思い出しながら探ってしまう。
そうだ、100%のピュアも、100%の打算も無かった。いつもその間で揺れ動いていた。誰も必要としない情報で申し訳ないが。
ドキュメンタリー手法で、本来なら完璧な見た目のふたりが近い存在の息吹として
なぜこれほどまでに身につまされるのか。この作品はドキュメンタリーの手法を採られているからだ。
この作品にナレーションは無い。登場人物の心の声が聞こえることもない。モノローグは唯一冒頭に浩輔が語る「ブランドの服は鎧(よろい)」という宣言と、地元を呪う言葉だけだ。だから観客は登場人物の心の中を彼らが直接発する言葉とその表情から読み解くしかない。

カメラはワンシーンワンカットの手持ちで、執拗に登場人物の顔のアップ、あるいは身体の一部だけを映し続ける。三半規管の弱い人は酔う可能性があるので後ろの席で観劇することを公式が勧めているくらいだ。
そのドキュメンタリー手法は稀に見る自然さとリアルさという結果で成功している。また、引きのほとんどない構図は、潤沢ではないだろう予算(ロケ地は極めて少ない)をカバーする目的もあったかもしれない。しかし一番効果的だったのは主演ふたりの見た目に及ばす効果だ。
身長180cmを大きく超えるモデル出身の、本来ならば遥か手の届かないルックスの主役ふたりが、執拗に顔のアップだけを追い続けられるために、表情のほころびと歪みが逐一伝わってくる。端的に言って、ちょっと不細工に撮られてるのだ。普通に撮っていたらただのBL夢物語になりかねない、本来なら完璧な見た目のふたりが、まるでそこらにいるありふれた人間のように近い存在の息吹として感じられるのだ。