
次第に彼の声を不思議と聞き取れるようになる。それは、猫顔の女性を偏愛する深澤が、落ちぶれ始めるきっかけになるひとりの風俗嬢との出会いからだ。ちふゆ(趣里)という源氏名を持つ彼女と華美な装飾のラブホテルで最初に会話を交わす場面に耳を澄ましてみる。
「ですか?」と聞くちふゆに対して深澤は、「え?」と聞き返す。それまでほとんど誰ともコミュニケーションが取れておらず、聞き返される側だった深澤が逆に聞き返した瞬間、コミュニケーションがはじめて成立する感動がこの場面にはある。
このあと、ふたりは親密な関係性になり、何度も逢引を重ねることになるのだが、その間、深澤の口から合計3度の「え?」が発せられる。この一文字だけが聞き取りやすいことが奇妙だ。斎藤工による「え?」のボイスドラマはまだまだ続く。

この単音のボイスドラマは、筆者が劇場で律儀に数えたところ、結局合計4度の「え?」で成り立つことになる。この単音の歯切れの良さがかえってドラマ全体の深刻な雰囲気を助長させる演出も秀逸だ。
ちふゆと田舎に逃避行した深澤は、都会生活でくぐもっていた発声が驚くほどクリアになる。どんよりした陰鬱なキャラクターがすこしいきいきとするのだが、その一方で、彼の生活はどんどん破綻する。ちふゆとの出会いは、彼に幸福をもたらすどころか、文字通りの零落をもたらす。
劇中、何度かインサート的にモンタージュされる沖合の波の様子や波打ち際の点景は、すさんでいく深澤の心模様を象徴している。斎藤本人が俳優としてのターニングポイントだと語る『昼顔』(2017年)のカラッと晴れた官能的な海は本作にはない。もちろん官能の海に相応しい色男としての斎藤工もいない。本作での斎藤は、魅力的な低音ボイスがフィーチャーされるかわりに徹底的に色気を奪われている。