
『オオカミ少女と黒王子』DVD (ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント)
だからみんな最高峰のイケメンの顔を国宝のように崇めるために『国宝』を観に行っているのだと結論付けるのは、さすがに暴論過ぎるだろうか? あながちそうでもない気がするのだが、国宝級イケメン以外にももうひとつ固有の称号を思い出した。
「平成のアラン・ドロン」という称号である。この称号を吉沢に与えたのは、『オオカミ少女と黒王子』(2016年)で共演した二階堂ふみだった。同作ジャパンプレミアでのトークで二階堂が「現場でもメガネの奥から輝きがぼろぼろこぼれてて、平成のアラン・ドロン」とその称号を授けるかたちで吉沢を絶賛したのである。
『国宝』は『オオカミ少女と黒王子』から約10年を経て公開されている。2018年に国宝級イケメン認定される前から、世界的美男俳優であるアラン・ドロンにちなんだ称号を授けられ、『国宝』の吉沢はそうした最高峰の称号にふさわしい存在として自らの芸を外面的にも内面的にも磨いたように見える。
実際、吉沢本人が『日曜日の初耳学』(TBS系、2025年6月1日放送回)で「外見に対する世間のイメージに抗いたい時期はありました」と発言していて、主演作を重ねる過程で国宝級イケメンである外見を純粋に芝居として内面化しようとしていることがわかる。

©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
吉田修一原作による文芸映画である『国宝』に対して2010年代を代表するラブコメ映画の金字塔『オオカミ少女と黒王子』をわざわざ引き合いに出した理由が他にもある。同作の監督は廣木隆一。廣木監督の代表作といえば『ヴァイブレータ』(2003年)であり、その主演俳優が寺島しのぶだった。
『ヴァイブレータ』は、寺島の演技に肉薄する廣木監督の演出と逆に演出に肉薄する寺島の生々しい存在感が画面上に叩き込まれた力作である。その寺島が『国宝』では、渡辺謙演じる二代目花井半二郎を支える梨園の妻役で出演している。本作でも寺島の演技が作品全体を支えるくらい肉薄しているのだが、本作の監督が俳優の演技に対して食い込むくらいの演出を逆に施しているかは留意すべきだろう。
『国宝』の吉沢亮はたしかに美しい。だとするなら、廣木監督がまだ20代前半だった吉沢から高純度の美麗成分をオーガニックに抽出した『オオカミ少女と黒王子』の吉沢亮はもっと美しい。二階堂演じる主人公に対して伏し目がちに告白の言葉を発する場面の艶姿はたしかに「平成のアラン・ドロン」に相応しいものだった。
「洗いあげられたようにこの映画ではまっしろだった」(『若者のすべて』このヴィスコンティ作品)とアラン・ドロンの魅力を評したのは映画評論家・淀川長治だったが、淀川のこの評言をなぞるような場面が『国宝』にあったことは少なからず本作の価値を高める強みである。
落ちぶれた三代目半二郎(吉沢)が屋上で一人孤独に踊る。原作にはない映画オリジナル名場面だが、狂気に揺れる虚な表情と化粧の白さが色濃く浮かぶ顔が「洗いあげられたようにこの映画ではまっしろ」だった。
そうか、本作は、国宝級イケメン映画の最高峰にして「平成のアラン・ドロン」であることを画面上で証明する令和の文芸映画なのだと、それくらいに評価を定めておきたいと思うのだが、どうだろう?
<文/加賀谷健>
加賀谷健
コラムニスト/アジア映画配給・宣伝プロデューサー/クラシック音楽監修
俳優の演技を独自視点で分析する“イケメン・サーチャー”として「イケメン研究」をテーマにコラムを多数執筆。 CMや映画のクラシック音楽監修、 ドラマ脚本のプロットライター他、2025年からアジア映画配給と宣伝プロデュース。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業 X:
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