
BLACKPINK 画像:株式会社エクシング プレスリリースより(PRTIMES)
その音楽が国際標準に近づけば近づくほど、自分たちは一体何者であるのかという実存的な問いに直面してしまったのですね。韓国におけるK-POPの受け止めは、まさにこの象徴的な例なのです。
漫画や音楽などのサブカルチャーは社会的なインフラです。もはや自然に溶け込んだ風景のようなものだと言えるでしょう。それが“国際標準”の掛け声のもとで意図しない形で画一化されたとき、一体何が起きるのでしょうか?
詩人の金子光晴は『絶望の精神史』で、現代のグローバリゼーションが呼び起こす不安を60年以上前に予見していました。
「上海も、ロンドンも、ローマも、いまでは、おなじように箱を並べたような団地住宅が建って、おなじような設計の狭い部屋で、コカコーラとスパゲッティとサンドイッチで暮らすようになる。世界は似てくる。これをデモクラシーというのであろうか。同時に、ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなくなるだろう。」(pp.186-187)

YOSHIKI 画像:PR事務局 プレスリリースより(PRTIMES)
これを現代の漫画に重ね合わせると、パロディや固有の言語感覚を削ぎ落として、世界中の誰にでもある程度理解できるような味気ない均質化へと収斂させること。それが“国際的な漫画”だということになります。
果たして、世界の漫画ファンは、そのような状況を望んでいるのでしょうか?たかがサブカル、エンタメと侮るなかれ。創作における統一規格を世界各国で共有すればするほど、いたるところでこのような自己の喪失が起こりかねません。
紀藤弁護士の真意はどうあれ、“国際標準”という言葉は大きなハレーションを引き起こしました。その背後には、いつ暴発するかわからない実存的な不安が潜んでいることを認識する必要があるのです。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4